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== 略伝 ==
北京大名府(現在の[[河北省]][[邯鄲市]][[大名県]])の人。[[1073年]]に[[進士]]に及第する。[[豫州|洛州]]司法参軍・河南府左軍巡判官をへて、[[哲宗 (宋)|哲宗]]即位とともに[[司馬光]]の推薦により秘書省正字に任ぜられ、[[呂公著]]の推薦で右正言に抜擢された。さらに起居舎人と左司諫を兼ね、左諫議大夫と出世した。性質は剛直で、当時の顕官を糾弾してやまなかった。
 
[[元祐]]4年12月(西暦で1090年)、後宮で妊娠の疑いがある者が出て乳母を雇用した。劉安世は哲宗の祖母の[[宣仁太后]]に上書し、未婚の少年皇帝の自律を諫めた。宣仁太后は調査し、劉氏(のちの[[昭懐皇后]])が妊娠したと突きとめ、劉氏は殴り倒され、追い出された。そのため、劉安世は劉氏の恨みを買った。
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哲宗が親政を始めた[[1094年]]、新法派の[[章惇]]が宰相に任ぜられると、その不可を上奏した。これが僭越とみなされ、知南安軍、小府小監、分司河南と徐々に左遷された。[[1096年]]には元祐4年の一件を蒸し返され、新州別駕・英州安置にまで落とされた。章惇はさらに安世を誅殺しようとしたが、偶然が重なり事なきを得て、[[梅州]]に移された。[[元符]]2年(1099年)9月、劉氏は皇后となった。その後、劉安世は梅州で捕らえられ、囚人護送車で開封へ送られた。途中、哲宗の崩御により死刑を免れた。
 
[[徽宗]]が即位すると、赦免されて集賢殿修撰・知鄆州・知真定府となったが、[[蔡京]]が宰相となると[[峡州]]に左遷され、[[1102年]]には元祐党石碑(旧法派を「奸人」として裁くための名簿)に入れられた。のちに宮中に復帰して龍図閣直学士となり、78歳で没した。'''忠定'''とされた。
 
== 学問と著作 ==