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==沿革==
伝説によると、初代[[ロームルス]]王の時代に既に騎兵ケントゥリアが登場する3つ定められており、そ定員を5代目[[タルクィニウス・プリスクス]]政ローマが倍増したとされる{{Sfn|リウィウス|loc=1.36}}。他兵種の部隊が整備されるのは6代目[[セルウィウス・トゥッリウス]]の治世からである。この先進的な王は自軍の現状を把握するために初めてローマの[[国勢調査]]を行い、ローマ軍を構成する市民を財産に応じて6つの階級で分け、さらに各自の階級ごとを100人からなる集団で細かく分けた。これがケントゥリアの始まりである。そしてケントゥリアは全部で193に構成された。また定員数は必ずしも100とは限らず、同じ階級で兵士を揃える事が優先されたので各々の数にバラつきがあった。また初期においては、この集団は以下で述べるようにローマの民会の社会制度([[ケントゥリア民会]])としての役割も担っていた。最終的に[[紀元前241年]]にトリブスが35まで拡張されると、総ケントゥリア数は373となった{{Sfn|リウィウス|loc=p.97脚注(1)}}
 
ケントゥリアがより[[ローマ軍]]の軍制としての傾向を強めていくのは[[マリウスの軍制改革]]に始まる。それまで兵士各自の所得に応じて区分されていた軍団を再編成、今まで兵役を免れていた無産階級にも登用の門戸を開き、貧富の差、年齢の区別をなくし、それまで軍の中心的役割を担っていた[[マニプルス]]に代わり[[コホルス]]とケントゥリアがローマ軍の要となる。とくに、今まで軍事的には兵士の単位程度の意味に過ぎなかったケントゥリアに軍事的な重要性が大幅に強まった。
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このほか、[[マザリナード]]の中に、『[[ジュール・マザラン]]の出生に関するサンチュリ』(1649年)や『予言的大虐殺あるいは百のサンチュリ ''La Hécatombe prophétique, ou les Cent centuries'' 』(1652年)などのように「予言」の意味で誤用しているものがあった。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
==参考文献==
* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|リウィウス}}|author=[[ティトゥス・リウィウス]]|title=[[ローマ建国史|ローマ建国以来の歴史]] 1|translator=岩谷智|publisher=京都大学学術出版会| year=2016}}
 
==関連項目==