「富士登山」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
書誌情報 , 重複する内部リンクを除去
35行目:
 
; 歴史
: 富士登山ルートの歴史として、[[富士山本宮浅間大社]]に伝わる[[正治]]2年([[1200年]])の『末代証拠三ケ所立会証文』には「東口珠山」「南口大宮」「北口吉田」と、「須山口登山道(現在の御殿場ルート)」「[[富士山村山口登山道|大宮口登山道]](現在の富士宮ルート)」「吉田口登山道(現在の吉田ルート)」の3ルートが書かれており、また北口の下山道と位置付けられていた「須走口登山道(現在の須走ルート)」は北口より歴史が古い可能性が高いことから、鎌倉時代にはすでに存在したと考えられている{{Sfn|伊藤太一|2009}}。考古学的資料から見ても、現在につながる4つのルートが遅くとも[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にはすでに存在していたことは確実である{{Sfn|伊藤太一|2009}}。古くは[[駿河国]](静岡県)側の3ルートが表口、[[甲斐国]](山梨県)側が裏口と呼ばれた。大宮口は[[大宮町 (静岡県)|大宮]]・[[富士根村|村山]]の2つの村落に管理される「[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]](現在の富士宮ルート)」であり{{Sfn|伊藤太一|2009}}、また北口には[[富士上吉田町|吉田]]以外に[[河口湖町|河口]]が管理する「船津口登山道(現在の吉田ルート)」があったため{{Sfn|伊藤太一|2009}}、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以降に富士登山が盛んになると、主に6つの村落が登山客を巡って争うようになった。なお船津口は六合目で吉田口に合流し、吉田口は八合目(現在の本八合目)で須走口に合流するため、頂上の[[富士山#山役銭と内院散銭|内院散銭]]などの利権は[[須山村|須山]]、大宮・村山、[[須走村|須走]]が管理していた{{Sfn|伊藤太一|2009}}。[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永大噴火]]で須山口は70年以上、大宮・村山口と須走口は30年以上不通になったことから河口が隆盛するが、さらに富士講が流行ると河口は当初これを避けたのに対し吉田が早いうちから受け入れたため、河口を押しのけ頂上の利権争いに加わるまで隆盛し、現代につながる吉田口優勢の状態になった{{Sfn|伊藤太一|2009}}。明治以降になると「精進口登山道」など新しいルートが次々と開削されたが主流になることはなく、昭和半ばにバスで各ルートの五合目まで行けるようになると、古来からの4ルート以外は衰退していった。
 
{{clear}}