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=== 江戸時代 ===
切腹は即ち市井の人間に科せられた[[死罪]]に相当し、当然武士に科せられた刑罰としても最も重いものであった。ただし、年代を経るごとに切腹は形式的なものとなり、実際に腹を切ることなく介錯人によって斬首されるのが一般的であった。
江戸時代初期には[[松平忠吉]]や[[結城秀康]]に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した。この流行は[[1663年]]([[寛文]]3年)5月に「天下殉死御禁断の旨」<ref>江戸城大広間で[[林鵞峯]]が「[[武家諸法度]]」を読み上げたのち老中[[酒井雅樂頭忠清]]によって宣言された。</ref>により殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが、寛文8年、[[奥平昌能]]が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で2万石を削られる処断を受け実効を持つことになった。[[1684年]]([[貞享]]元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる<ref>{{Cite book|和書|author=山本博文|title=殉死の構造|publisher=弘文堂|year=1994}}</ref>。
 
江戸時代初期には[[松平忠吉]]や[[結城秀康]]に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した。この流行は[[1663年]]([[寛文]]3年)5月に「天下殉死御禁断の旨」<ref>江戸城大広間で[[林鵞峯]]が「[[武家諸法度]]」を読み上げたのち老中[[酒井雅樂頭忠清]]によって宣言された。</ref>により殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが、寛文8年、[[奥平昌能]]が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で2万石を削られる処断を受け実効を持つことになった。[[1684年]]([[貞享]]元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる<ref>{{Cite book|和書|author=山本博文|title=殉死の構造|publisher=弘文堂|year=1994}}</ref>。
 
[[天保]]11年([[1840年]])に[[上州沼田藩]]士の工藤行広が『自刃録』を著す。徳川瓦解の30年前で、武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアルであった。[[1943年]]に[[森銑三]]が「切腹の書自刃録」<ref>{{Cite book|和書|title=森銑三著作集|volume=第11巻|publisher=[[中央公論社]]|year=1971}}</ref>というエッセイでこれを紹介している。