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'''地動説'''(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は
[[ファイル:Heliocentric.jpg|thumb|220px|right|地動説の図]]
== 歴史 ==
=== 古代の地動説 ===
[[File:Geoz wb en.svg|thumb|250px|地動説(下部の図)、天動説(上部の図)の
紀元前4世紀の[[アリストテレス]]の時代から[[コペルニクス]]の登場する[[16世紀]]まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという[[天動説]]が信じられてきた。そもそも古代において、実際に自分の眼で見て、1日1度太陽が地平線の上に昇り、そして地平線下に下り、太陽以外の天体も同じように動いている以上、その現象をそのまま受け取って解釈するのが普通であった。
しかしながら[[月]]に関しては
そうした中、[[コペルニクス]]よりも以前に
特に傑出していたのは、紀元前3世紀のイオニア時代の最後の[[アリスタルコス]]である。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心に据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたもので
なお、後世の[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]もまた、地動説に関する内容を「[[レスター手稿]]」に記している。
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=== 天動説の優勢 ===
[[2世紀]]には[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]、[[ヒッパルコス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス]]が天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えた。これに対し、アリスタルコスの地動説では、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか、その説明ができなかった
とはいえ、おかしなところは存在した。
* 5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる<ref>アルマゲスト</ref>
* 惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
* 火星の逆行に関しては、やや誤差が多い
などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密に惑星の位置を予報
また、ヨーロッパでは[[古代ギリシア]]時代以降科学は停滞し、[[西ローマ帝国]]滅亡後は[[暗黒時代]]を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのは[[ルネサンス|ルネッサンス]]以降である。
こうした理由で、科学的な難点を含みながらも
=== 大航海時代 ===
[[天動説]]の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。
[[大航海時代]]以前は船舶の運航は
さらに、もう
一般に言う1年は厳密には[[回帰年]]であり<!--当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年([[回帰年]])-->、その定義は、[[分点]]または[[至点]]から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は
=== コペルニクスの登場 ===
[[File:Mikolaj Kopernik.jpg|thumb|[[ニコラウス・コペルニクス]]。16世紀に地動説を唱え、星の軌道計算を行った。]]
[[カトリック教会]]の[[司祭]]であった[[ニコラウス・コペルニクス]]は、この誤差に着目した。彼は{{要出典|範囲=地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ|date=2015年3月}}、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスは[[アリスタルコス]]の研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて[[公転]]するものとして、1[[恒星年]]を365.25671日、1[[回帰年]]を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、
コペルニクスは[[1543年]]に没する直前、彼の思索をまとめた著書『[[天体の回転について]]』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定し
またこの業績について、[[ガリレオ・ガリレイ]]から「太陽中心説を復活させた」と評された<ref name=cosmos_1/>。
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== コペルニクスの地動説 ==
=== 理論 ===
コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的に変換しただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値が相互に関連しているため、どこかの値にが少しでも変わると
コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である<ref>この時代、天王星や海王星、小惑星はまだ発見されていない。</ref>。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きを説明できず、コペルニクスの著書では、周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられた<ref name="プリンチペ" />。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であり、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じ、楕円軌道に気付くことはなかった<ref>なお、コペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった。</ref>。『天体の回転について』は彼の死の直前に出版されたが、コペルニクスが恐れたような批判は起こらなかった<ref name="プリンチペ" />。本は読まれたが、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった<ref name="プリンチペ" />。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さを算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった。彼の理論はそれまでの地球中心説より観測データと適合するということも、自然学的に見てシンプルだということもなかった。動く地球というものが基礎的な自然学や常識、おそらく聖書と衝突しており、彼の説が真実だと考えることは困難だった<ref name="プリンチペ" />。物体は宇宙のもっとも低い地点である宇宙の中心に自然に落下すると考えられていたが、コペルニクスの説では、地球が太陽の方に落下しない理由はわからなかった<ref name="プリンチペ" />。また地球が24時間で一回転するなら非常に高速で動いているはずであるが、動きを感じることはできず、空を飛ぶ鳥が置き去りにされることもなかった。地球が太陽の周りを回るなら星々は[[年周視差|視差]]を示すはずだが、視差は観察されなかった。視差がないということは、地球が動いていないか、恒星が不可解なほど遠くにあるということを示していた。視差がなく、地球が動いていると仮定するならば、恒星は
<!--
=== 科学的方法論 ===
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== コペルニクス後の地動説 ==
以上の理由により、コペルニクスの体系を真実と考える人はほとんどいなかったが、そもそも当時の多くの天文学者は、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかを確実に説明できるとは考えていなかった<ref name="プリンチペ" />。彼らが欲していたのは
コペルニクスの著書では計算に必要な値があちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であったため、[[1551年]]
それまで
[[ティコ・ブラーエ]]は、恒星の[[年周視差]]が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを[[公転]]するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けば[[ヨハネス・ケプラー]]だった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり<ref>助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない。</ref>、ブラーエの膨大な観測記録を土台として[[1597年]]、
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって[[運動の第1法則|慣性の法則]]を発見した。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、[[木星]]の[[衛星]]を発見し、地球が動くなら[[月]]は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を封じた。また、ガリレオは[[金星]]の満ち欠けも観測した。これは、[[地球]]と[[金星]]の距離が変化していることを示すものだった。
== ガリレオ裁判 ==
{{main|ガリレオ・ガリレイ#裁判}}
[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の[[科学史]]教授{{仮リンク|ローレンス・M・プリンチペ|en|Lawrence M. Principe}}は、「ガリレオと教会」は神話と誤解に満ちたエピソードであると指摘している<ref name="プリンチペ" />。知的・政治的・個人的問題が
地球中心説がカトリック教会の正式な教義であったことはなく、教会は地球中心説と太陽中心説のどちらが真実かという問題に直接利害関係を持っていなかった。ガリレオの支持者と反対者は教会の中と外の両方に存在しており、ガリレオの最初の主要な支持者はイエズス会の天文学者たちであった<ref name="プリンチペ" />。[[異端審問|宗教裁判所]]がガリレオに出した地球の運動を撤回するようにという命令は、タイミングの悪さや政治的陰謀、教会の派閥争い、聖書の解釈権、友人だったローマ教皇[[ウルバヌス8世]](マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどから起こったと考えられている<ref name="プリンチペ" />。聖書の解釈権を有しているのは教会であったが、「動く地球」が聖書の解釈に関わっており、ガリレオは1610年代にこの問題について、自説を擁護するために性急に口出しをしていた<ref name="プリンチペ" />。自分の主張を通すために伝統的な解釈を拒否するというやり方は、同時代の[[プロテスタント]]に似ていた<ref name="プリンチペ" />。ガリレオはウルバヌス8世と、太陽中心説と地球の運動の明らかな証拠が出るまで仮説として扱うという約束をし、『天文対話』を書く許可を得た<ref name="プリンチペ" />。しかし、ヴァチカンの許認可官と検閲官の承認を得て本が世に出ると、ウルバヌス8世は、約束した内容は最終ページでわずかに触れられるのみで、しかも道化役を演じた人物から語られていることを知った<ref name="プリンチペ" />。[[三十年戦争]]に関する外交交渉、政争や批判で疲弊していたウルバヌス8世は侮辱されたと感じて激怒し、[[異端審問|宗教裁判所]]による司法取引の提案を拒み
その後、ガリレオはトスカーナにある自分の別荘に軟禁され、そこで仕事を
== ガリレオ裁判以降 ==
ガリレオの判決の影響を正確に推し量ることは
コペルニクスの説は、天体は円運動をするという従来の常識に縛られており、プトレマイオスの天動説と同様に周転円を用いて惑星の運動を説明していた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測記録を丹念に研究し、惑星の軌道が楕円と仮定するとより単純かつ正確に軌道を説明できる
しかし、ケプラーもガリレオも
また、ガリレオやケプラーの地動説は、宇宙の中心を太陽とするものであった。ニュートンの万有引力の法則は、惑星が太陽を中心に公転するのは、単に太陽が惑星と比べて質量が
ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、[[ジェームズ・ブラッドリー]]の[[光行差]]の発見、[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]による年周視差の観測の成功も必要となる。
蛇足ではあるが、{{要出典|範囲=[[ローマ教皇庁]]ならびに[[カトリック教会|カトリック]]が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは
2014年、[[アメリカ科学振興協会]]は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している<ref>{{Cite news
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== 太陽中心説とキリスト教 ==
地動説について言及する際に、必ずといっていいほど、地動説が[[キリスト教]]の宗教家によって迫害されたという主張がされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在
=== 迫害されたとされる根拠 ===
* [[ニコラウス・コペルニクス]]は、体系の斬新さに批判が出ることを恐れ、25年以上推敲を続け発表をためらった。発表も死の直前であった。
* 『[[天体の回転について]]』は、出版を任されたルター派の牧師アンドレアス・オジアンダーによって、コペルニクスの主張を弱めるために「純粋に数学的な仮定である」という無記名の序文が無断でつけられて刊行された。
* 発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである
* [[マルティン・ルター]]は、コペルニクス説について
* それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した[[ジョルダーノ・ブルーノ]]は、[[異端審問]]にかけられ[[1600年]]に[[火刑]]に処された。
* [[ガリレオ・ガリレイ]]は地動説を唱えたために迫害された
* [[1616年]]に[[ローマ教皇庁]]は地動説を禁じた
* [[1633年]]に時の[[ローマ教皇]][[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]は、自ら[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する第2回宗教裁判で異端の判決を下した(異端として断罪されたというのは民間伝承であり、実際は異端として断罪されたわけでも投獄されたわけでもなく、この論の根拠は史実とは異なる<ref name="プリンチペ" />)。
* 『天体の回転について』は、1616年に1835年までローマ教皇庁から[[禁書]]にされた<ref name="ギンガリッチ">オーウェン・ギンガリッチ 著 『誰も読まなかったコペルニクス』早川書房 ISBN 4-15-208673-4</ref>。
==== 太陽中心説が批判された理由とされたもの ====
*キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのは[[神]]の偉大さを証明できる
*[[1539年]]にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルターは[[旧約聖書]]の[[ヨシュア記]]<ref>10章:12節‐14節。</ref>でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した{{要出典|date=2016年6月|}}。
*ガリレオ裁判の最高責任者だった[[ロベルト・ベラルミーノ]]枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。
*[[アリストテレス]]の流れを
*[[カトリック教会]]が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者は[[ローマ教皇]]・[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]をあてこすったものだと考えたとされる。
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上記のような「科学者」と「宗教家」の闘争というモデルは現在では否定されている<ref name="プリンチペ" />。上記のような説(現在では支持されていない)に対しては、以下のような反論がなされた。
* コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一
* コペルニクスの地動説は、写本の形で[[1514年]]ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである。
* 自説の発表をためらうコペルニクスに発表を急き立てたのは著名な聖職者たちであり、教皇の私設秘書が教皇クレメンス7世と枢機卿たちの楽しみためにコペルニクス体系の講義を行っている<ref name="プリンチペ" />。
* コペルニクスは、死期が近づく前に
* 『天体の回転について』には、[[ローマ教皇]]への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。
* [[グレゴリオ暦]]への改暦に際して、ローマ教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリオ13世]]が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、
* プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、
* 『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。
* 地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、[[天動説]]で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、[[ヨハネス・ケプラー]]がもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。
* [[ジョルダーノ・ブルーノ]]が火炙りになったのは、[[太陽]]が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を
* [[ガリレオ裁判]]は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために
* 『天体の回転について』は、[[1616年]]、[[ガリレオ裁判]]の始まる直前に、禁書リストに挙げられたが、十ヶ所の修正を行うまでという条件付きである<ref name="ギンガリッチ" />。1620年には削除すべきとされた箇所が設けられた<ref>ヤン・アダムチェフスキ「ニコラウス・コペルニクス」日本放送出版協会</ref>。
*[[カトリック教会]]は[[太陽]]が[[教皇]]の象徴だと考えていた
== 古代中国の「地動説」 ==
古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『[[列子]]』の「[[wikt:杞憂|杞憂]]」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな
== 中世イスラム世界の地動説 ==
[[ウマル・ハイヤーム]]の時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説
<poem>
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</poem>
この
一方、[[アブー・ライハーン・アル・ビールーニー]](973年 - 1048年)は、その著書
== 地動説と日本 ==
[[徳川吉宗]]の時代に[[キリスト教]]以外の漢訳洋書の輸入を許可した
== 地動説のもたらしたもの ==
地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を[[科学革命]]の時代とも
“常識をひっくり返す(証明されている)新説” を「[[コペルニクス的転回]]」などと呼ぶのは、その名残である。また[[革命]](Revolution)なる言葉も、元はこの科学革命を指す言葉であり、
== 出典 ==
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