「石原裕次郎」の版間の差分

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マリア幼稚園(現在の[[小樽藤幼稚園]])卒園、[[小樽市立稲穂小学校|稲穂国民学校]]時代に[[競泳]]や[[天狗山 (小樽市)|天狗山]] で[[スキー]]に親しむ。[[逗子市立逗子中学校|逗子中学校]]時代からは[[バスケットボール]]に熱中した。その後、[[慶應義塾高等学校]]を目指すが受験に失敗し、[[慶應義塾志木高等学校|慶應義塾農業高等学校]]に籍を置くが、[[1951年]]に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]][[政治学部|政治学科]]に内部[[進学]]するが、[[放蕩]]生活に明け暮れる。
 
大学在学中から、俳優を目指し[[東宝]]と[[大映]]、[[日活]]の[[オーディション]]を受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー[[水の江瀧子]]と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の[[芥川賞]]受賞作『[[太陽の季節]]』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』では、後に妻となる[[石原まき子|北原三枝]]を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。1963年に[[石原プロモーション]]を設立。1970年代以降は映画から離れ『[[太陽にほえろ!]]』、『[[大都会 (テレビドラマ)|大都会]]』など[[テレビドラマ]]で活躍した。[[戒名]]は陽光院天真寛裕大居士。[[墓]]は[[万成石]][[五輪塔]]で[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にある[[總持寺]]に立てられている。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。
{{quotation|「''美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。''」}}
[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。