「藤枝教行」の版間の差分

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'''藤枝 教行'''(ふじえだ のりなり)は、[[江戸時代]]後期の[[大身旗本]]。'''藤枝外記'''(ふじえだ げき)の[[仮名 (通称)|通称]]でも知られる。妻のみつ(養父の義理叔父の山田利寿の娘)との間に3男1女をもうける。通称、安十郎、外記。石高は[[武蔵国]]および[[相模国]]内に4000石。屋敷は[[湯島]]妻恋坂
 
== 生涯 ==
旗本・[[徳山貞明]]の八男として生まれ、[[安永]]2年([[1773年]])に[[藤枝貞雄]]の養子となった。妻のみつ(養父の義理叔父の山田利寿の娘)との間に3男1女をもうける。通称、安十郎、外記。石高は[[武蔵国]]および[[相模国]]内に4000石。屋敷は[[湯島]]妻恋坂。
旗本・[[徳山貞明]]の八男として生まれ、[[安永]]2年([[1773年]])に[[藤枝貞雄]]の養子となった。
 
家祖は、[[徳川家光]][[側室]]の[[順性院]](お夏)の父の[[藤枝重家]]。重家は、元は京都町人の弥市郎といったが、娘のお夏に家光の手がつき懐妊し、[[徳川綱重]]の生母となったため、重家は士分に取り立てられて岡部八左衛門重家と名乗った。のちに[[甲府藩]]主となった綱重の[[家老]]となり藤枝重家と改名した。綱重の子の[[徳川家宣]]が将軍に就任した際に甲府藩領は[[天領|幕府著勝]]となり、家臣団は幕臣として吸収され、藤枝家の子孫は幕府にて4500石の大身旗本となった。
 
大身である教行は、[[吉原 (東京都)|新吉原]]江戸町一丁目の[[妓楼]]大菱屋九右衛門抱えの[[遊女]]綾絹(綾衣とも。妻みつと同じ年の19歳)と深い仲になった。綾絹の身柄を裕福な商人が[[身請け]]するという話を聞いたとも、吉原遊びが幕府の知れるところとなり[[甲府勤番]]支配に回されることとなりそうになったともいうが、いずれにせよ綾絹に会えなくなると思いつめ、吉原から綾絹を(正式な手続き無しで)連れ出し逃走した。しかし程なく追っ手に見つかり、進退窮した2人は[[餌指]](農家とも)の家で[[心中]]した。
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この事件を題材にして、のちに[[岡本綺堂]]が「箕輪心中」を著した。
== 藤枝家 ==
家祖は、[[徳川家光]][[側室]]の[[順性院]](お夏)の父の[[藤枝重家]]。重家は、元は京都町人の弥市郎といったが、娘のお夏に家光の手がつき懐妊し、[[徳川綱重]]の生母となったため、重家は士分に取り立てられて岡部八左衛門重家と名乗った。り、のちに[[甲府藩]]主となった綱重の[[家老]]となり藤枝重家と改名した。綱とする書籍があるが、少なくともの子の[[徳川宣]]が将軍就任した際に甲府藩領ついて「寛政重修諸家譜」で[[天領|幕府著勝]]『京都の人』、『弥七郎、八左衛門』なり記載されるのみで、家臣団は幕臣老になったして吸収さは書かておらず、藤枝姓を称し、甲州藩の子孫は幕府て4500石の大身旗本となったのは息子の[[藤枝方孝]]からとしている
 
[[藤枝方教]]の代で綱重の子の[[徳川家宣]]が将軍に就任した際に甲府藩領は[[天領|幕府著勝]]となるに伴い、家臣団は幕臣として吸収され、藤枝家の子孫は幕府にて4500石の大身旗本となった。
== 注釈 ==
<references />