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[[豊臣秀吉]]が甥の[[豊臣秀次]]に関白を譲った後も当然に太閤と呼ばれたが、秀吉の死後も太閤といえば秀吉を指すことが多く、[[太閤検地]]のような語を構成することもある。このことから「[[大師 (僧)|大師]]は[[空海|弘法]]に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という[[格言]]までできるほどだった。特に秀吉を指すことを強調する場合は'''豊太閤'''(ほうたいこう)と呼ばれる。
 
その後の江戸時代も、摂関を子の[[一条香]]に譲った[[一条兼香]]は太閤と呼ばれた。[[安政]]3年12月9日(1857年1月4日)に、[[鷹司政通]]が[[孝明天皇]]から特に勅旨をもって太閤の称号を贈られた(関白を引き継いだ[[九条尚忠]]が別家であるため本来は太閤とはならない)のが太閤の最後の例となる。
 
=== 今太閤 ===