「平清盛」の版間の差分

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治承4年([[1180年]])末までには、平氏の勢力基盤である西国においても[[伊予国]]の[[河野通清]]・[[河野通信|通信]]父子、翌治承5年([[1181年]])には[[豊後国]]の[[緒方惟栄]]・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった[[佐竹秀義]]などが頼朝によって討伐される。
 
このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは[[天平]]3年([[731年]])に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた[[新田部親王]]の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また[[丹波国]]に諸荘園総下司職を設けて、[[平盛俊]]を任じた。さらに[[越後国]]の[[城資永]]、[[陸奥国]]の[[藤原秀衡]]に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた<ref>病状の記録から、大陸から伝来して流行していた[[風土病]]である[[マラリア]]に罹ったとされる。また江戸時代の『[[誹風柳多留]]』初編に「清盛の医者ははだかで脈を取り」。</ref>。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の[[平盛国]]の屋敷で死亡した。[[享年]]64。
 
清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる。『[[平家物語]]』では清盛が死に臨んで「[[葬儀]]などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した<ref>『[[玉葉]]』による</ref>。