「霧島神社」の版間の差分

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[[霧島岑神社]](霧島山中央六所権現)の社伝によれば、[[天慶]]・[[天暦]]年間に[[性空]]上人が霧島岑神社に参籠し、霧島山の四方に夷守神社ほか4社を創建したという。
 
また、[[霧島神宮]]の社伝によれば、鎌倉時代[[文暦]]元年([[1234年]])の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の長尾山に移し東霧島権現(東霧島神社)とした。[[文明 (日本)|文明]]16年([[1484年]])、[[島津忠昌]]がこれを2社に分けた。東社(霧島東御在所両所権現)が現在の霧島東神社、西社(西御在所霧島六社権現)が現在の[[霧島神宮]]である。
 
その他にも、鎌倉時代[[文暦]]元年([[1234年]])の噴火で社殿を焼失し社殿を霧島山の東の長尾山に移した後、これを現在の[[霧島岑神社]]と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社から霧島西神社(現在の[[霧島神宮]])を分けたという伝承もある。
 
このように[[文暦]]元年(1234([[1234]])の御鉢の噴火によって消失した社のその後の現在に至るまでの経緯については、様々な伝承があるようである。
 
これら4社に[[狭野神社]](狭野大権現)・夷守神社(夷守六所権現。明治6年に霧島岑神社に合祀)を加えて[[霧島六社権現]]という。