「戦後民主主義」の版間の差分

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『[[文化防衛論]]』『[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年]]』など、多くの評論で戦後民主主義を批判する[[三島由紀夫]]は、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの「日本の連続的な文化的な価値、歴史的な価値、精神的な価値」のすべて一切が「悪い」ものと見なされて、「国民精神」(永い民族の歴史の中で日本人が培い、育ててきた伝統や文化の結晶)が一旦「御破算」となってしまい、それがその後多少は修正されたものの、すでに修正段階で「文化的価値」(国民精神)は、「政治的価値」(民主主義)よりも下位に置かれ、両者の間に「非常なギャップ」が出来てしまったとし、戦後民主主義から起こった近代的現象である大衆社会のことを、「全てを呑み尽くしてしまふ怪物のやうな恐ろしいもの」としている<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「我が国の自主防衛について」(第3回[[新政同志会]]青年政治研修会での講演 1970年9月3日)。{{Harvnb|36巻|2003-11|pp=319-347}}、音声は{{Harvnb|41巻|2004-09}}に所収。</ref>。そして、戦後大衆社会において第一に優先される価値観は、「お金を儲けて毎日を楽しく暮らすこと」であり、そのためならば、自分の国の大事な文化や財産であろうが「つまらなければ片つ端から捨ててしまふ」ということになってしまうと三島は危惧し<ref name="mishima"/>、徐々に「国民精神」が侵食された大衆が「政治に関心を持つ」という「体裁のいいこと」に関わり、真剣に考えずに、インテリらしく見えるというような気持ちで[[日本社会党]]に投票してみたり、[[日本共産党]]が支持する[[美濃部亮吉]]を都知事にしてしまう危うさを指摘した<ref name="mishima"/>。
 
また、より先鋭的な立場をとる[[暴力集団]]は、平和主義や議会制民主主義といった戦後民主主義の価値観を攻撃する。特に1960年代後半から[[1970年代]]には、[[吉本隆明]]など反権威的な立場からの戦後民主主義批判が当時の若者から熱い支持を受けた。これらの[[極暴力集団]]リード煽動した[[学生運動]]の過激化の背景には、自由主義寄りの戦後民主主義と、それに迎合し穏健化した(と彼らがみなした)共産党や社会党への批判があった。
 
さらに、戦後民主主義を擁護する立場から「右翼」と称されて攻撃されている保守的意見にも、多様な見解があることを考慮する必要がある。革新勢力のみでなく自由主義者からも戦後民主主義が支持されたように、戦後日本の価値観変容から戦後民主主義のあり方に疑念を抱いているのは、先の新左翼や吉本の例からも見られる通り、何も保守派の者ばかりではない。またこれら保守論者が批判しているのが「民主主義」そのものではなく「“戦後”民主主義」であることにも注目すべきであろう。「戦後民主主義」という言葉の定義自体が革新勢力と保守勢力とで異なっている、とも言える。
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以下は、「戦後民主主義」に対する反対、批判的な立場の見解の例である。
* [[大日本帝国]]の国策或いは全てをアンチテーゼとする民主主義、そのため戦前の社会風潮に対して否定的である。
* [[日本国憲法]]、また[[日本国憲法第9条]](不戦条項)に基づいた完全な非武装無防備無抵抗(国の主権や祖国防衛・民族独立をも全否定)を絶対視する反戦全体主義[[イデオロギー]](国家の[[自衛権]]肯定、また国家あってこその国民という思想)。また、日本の主権を奪った[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]率いる[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が日本国憲法の草案を作成して交付したものであり、<nowiki>''植民地化''</nowiki>した日本を巧妙に支配できるように作り上げたものであるとしている
*占領下の日本は完全に言論統制を受けており、憲法について自由に発言することもできず主権を奪われていた事実を無視しており、そのような状況で国家主権の発現である憲法を自らの手で制定できるわけがないと批判する。
* 戦後の時代に教育された、民主主義のなかに育った人の民主主義。
* “個人の自由”を絶対視して、これを否定する集団や組織のあり方、ルール、決まりを基本的に悪とみなす「私」優先の社会潮流。([[辻創]]<!--(1949-2008)。料理人兼教育研究家-->)