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ラトガース大学で[[福井藩]]からの留学生であった[[日下部太郎]]と出会い、親交を結ぶ。その縁により明治4年([[1871年]])に日本に渡り、福井藩の[[藩校]][[明道館|明新館]]で同年3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。
 
明治4年(1871年)7月、[[廃藩置県]]により契約者の福井藩が無くなった。明治5年([[1872年]])、[[フルベッキ]]や[[由利公正]]らの要請により10ヶ月滞在した福井を離れて[[大学南校]](東京大学の前身)に移り、明治7年([[1874年]])7月まで物理と化学、精神科学など教えた。
 
明治8年([[1875年]])の帰国後は牧師となるが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。[[1876年]]にアメリカで刊行した''The Mikado's Empire''(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)は、第一部が日本の通史、第二部が滞在記となっている。