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宇佐神宮の託宣集である『[[八幡宇佐宮託宣集]]』には、[[筥崎宮]]の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、[[筑前国]][[穂波郡]](現在の[[福岡県]][[飯塚市]])の[[大分八幡宮]]が宇佐神宮の[[本宮]]であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県[[築上郡]][[築上町]]にある矢幡八幡宮(現[[金富神社]])であるとする説もある。
 
また、社伝等によれば、[[欽明天皇]]32年([[571年]]?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:[[応神天皇]]のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある<ref>『[[扶桑略記]]』(『[[東大寺要録]]』、『宮寺禄事抄』)。</ref>。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が[[応神天皇]](誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。
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{{要出典範囲|date=2011年8月|そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている[[和銅]]元年([[708年]])頃までには大神比義と関係がある大神一族が[[ヤマト王権|大和朝廷]]より[[宇佐]]の地にやってきて、あるいは[[大和朝廷]]と手を結んで、[[神仏習合]]、[[八幡神]]創出を行ったと考えられている}}。
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当社南に立つ御許山山頂には[[奥宮]]として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族[[宇佐氏]][[磐座]]信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、[[辛嶋氏]]<ref group="注">スサノオの子・[[五十猛命]]が始祖とされる氏族で、当初は[[香春岳]]山麓に住み、その後現在の[[中津市]]大貞[[薦神社]]で神官もしくは巫女を務めていたとされている。</ref>が[[比売大神]]信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社とも<!--宇佐市中561:住所表記多く読みづらいので、とりあえずコメントアウト。以下同様-->)、乙咩神社(おとめ-<!--宇佐市下乙女宮本1343-->)、さらに[[酒井泉神社]]<!--(宇佐市辛島泉1)-->、郡瀬神社(ごうぜ-、昔は瀬社とも<!--宇佐市樋田字瀬社187-1-->)と社殿を建築した。
 
[[崇峻天皇]]年間(588? - 592年?)に[[鷹居社]](たかいしゃ<!--宇佐市上田字1435-->)が建てられた。
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社殿は、宇佐亀山に[[神亀]]2年([[725年]])に一之殿が造営された。以後、[[天平]]元年([[729年]])に二之殿、[[弘仁]]14年([[823年]])に三之殿が造営されて現在の形式の本殿が完成したと伝えられている。
 
[[天平]]12年([[740年]])の[[藤原広嗣の乱]]の際には、官軍の大将軍の[[大野東人]]が決戦前に戦勝を祈願した。また、[[天平]]15年([[743年]])の[[東大寺]]造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして[[神護景雲]]3年([[769年]])の[[宇佐八幡宮神託事件]]では皇位の継承まで関与するなど、[[伊勢神宮]]を凌ぐ程の[[皇室]]の[[宗廟]]として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。
 
[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』には、3神が「[[豊前国]][[宇佐郡]] 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも[[名神大社]]に列している。
 
また、[[平安時代]]には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の[[荘園]]領主であった。また神職家や坊官家は武士としても活動しており<ref group="注">例えば豊臣政権期に黒田氏が中津に赴任してきた際、大宮司家のひとつ宮成氏や坊官家の時枝氏が黒田氏の配下に入ったことが知られている。</ref>、このため近郊の(特に[[豊後国]]の)有力武士としばしば敵対している。
 
源平争乱期には[[平清盛]]の娘を妻とする大宮司・[[宇佐公通]]が[[平氏]]方につく。[[屋島の戦い]]から敗走する総大将・[[平宗盛]]ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間[[安徳天皇]]と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の[[緒方惟義]]が[[源氏]]方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した[[平清経]]が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により[[石清水八幡宮]]が管理することになった<ref group="注">ちなみに神社としての石清水八幡宮はもともと宇佐神宮から八幡神を分霊したものであり、宇佐神宮のほうが本社である。しかし寺院としては宇佐八幡宮弥勒寺が石清水八幡宮護国寺の末寺という関係にあり(いずれも天台宗)、石清水八幡宮のほうが京に近く朝廷から直接崇敬されたこともあり、その後も「どちらが格上か」については宇佐神宮と石清水八幡宮の間で意見の相違があった。</ref>。
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には豊後の守護戦国大名[[大友氏]]と、[[豊前国]]に手を伸ばしていた[[中国地方]]の覇者[[大内氏]](のちには[[毛利氏]])との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。特に[[大内盛見]]や[[大内義隆]]の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。しかし、[[大寧寺の変]]により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、[[大友義鎮|大友宗麟]]の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司[[宮成公建]]らは[[北九州市]]の[[到津八幡]]まで逃げ延びることとなった。
 
[[豊臣秀吉]]の九州平定後、[[豊前]]には毛利氏、ついで[[黒田氏]]と相次いで有力[[大名]]が進駐した。
 
[[江戸時代]]には、宇佐一帯は[[中津藩]]・[[佐賀藩]]飛び地・[[天領]]などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の[[神領]]も存続することになった。
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宇佐神宮の[[神職]]を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の[[大神氏 (豊後国)|大神氏]]が務めた。
 
[[平安時代]]中頃までは大神氏が務めたが、神主職を菟沙津彦 ([[神武東征#あらすじ|ウサツヒコ]]) らの子孫・[[宇佐氏]]に譲って歴代祝職となり、宇佐氏である宮成氏、到津氏、岩根氏、安心院氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。
 
[[鎌倉時代]]末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。以後この2家が交互に大宮司職を継ぎ明治に至っている。なお、一時宇佐氏一族の出光氏も大宮司となっている。
 
戦後、祝氏・宮成氏が男爵を返上し宇佐氏に復して祭祀を離れ、以後は到津氏が継承し祭祀を行っていた。[[平成]]16年(2004([[2004]])ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。
 
==== 宮司の継承を巡る騒動 ====
[[2006年]]([[平成18年]])、中津市薦神社宮司(始祖は宇佐春海権大宮司)が79代宇佐神宮宮司に就任した。[[夕刊フジ#ネット事業|ZAKZAK]]によると、神職になって間もない世襲家の女性(78代宮司の長女)の代役だったという<ref name="zakzak20090316">{{Cite news | url = http://www.zakzak.co.jp/top/200903/t2009031636_all.html | title = “神義”なき戦い!? 世襲家vs神社本庁の深い対立 | work = ZAKZAK | publisher = [[夕刊フジ]] | date = 2009-03-16 | accessdate = 2016-05-03 }}</ref>。79代宮司が[[2008年]](平成20年)8月に病死すると、宇佐神宮の責任役員会は、権宮司となっていた世襲家の女性を後任の宮司として神社本庁に推薦したが、神社本庁側は女性が経験不足であるとして承認せず、宮司職は空席になった<ref name="zakzak20090316"/>。
 
[[2009年]](平成21年)に[[神社本庁]]が大分県神社庁の穴井伸久庁長を特任宮司に選出する<ref>[https://archive.is/20120710024910/mainichi.jp/seibu/shakai/news/20090304ddp012040012000c.html 宇佐神宮:80代宮司に穴井さん]{{リンク切れ|date=2010年12月}}毎日新聞、2009年3月4日</ref><ref name="oita-press200903051439">[http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_123623166019.html 宇佐神宮の宮司職 法廷闘争へ【大分のニュース】] 大分合同新聞</ref>と、宇佐神宮の責任役員会と氏子総代会はこれに反対して、女性権宮司の80代宮司就任を決め、神社本庁へ離脱届を提出した<ref name="oita-press200903051439"/><ref>[https://archive.is/20120717185013/mainichi.jp/seibu/news/20090308sog00m040013000c.html 宇佐神宮:宮司が2人 神社本庁VS氏子総代会 法廷闘争も]{{リンク切れ|date=2010年12月}}毎日新聞、2009年3月9日</ref><ref>[https://archive.is/20120710090433/mainichi.jp/select/wadai/news/20090309k0000m040087000c.html 宇佐神宮:後継争い、訴訟も検討 新宮司選出に世襲側反発]{{リンク切れ|date=2010年12月}}毎日新聞、2009年3月8日</ref>。