削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
70行目:
* 弟は知的障害者だが、兄弟仲は非常によく、谷が結婚後も同居を続けた。初主演のテレビドラマ『日立ファミリー劇場「女のしあわせ 第7回 田辺死す」』([[1962年]])で、谷が演じた知的障害者は、この弟がモデルである。谷の死去から4年後の2014年に他界した。
* [[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の際は、テレビでオリンピックの選手たちを観て「ものすごく素晴らしい」と大感動し、「それに比べてオレのやっていることは」と、仕事中は欝状態におちいったという。また 植木の証言によれば、東京オリンピック当時はオリンピック選手に間違われたくて、当時の選手団のユニフォーム一式(赤いジャケットと白いスラックス、白に赤いラインの入ったソフト帽)を身につけて出歩いたり、自宅の電話の受話器を重量挙げのバーベルに見立て、電話の横にロージンバッグを起き、電話に出る前はそれで滑り止めの粉を付け、「フンッ」と勢いをつけてから受話器を取るなど、奇行に及んでいたという<ref group="注釈">このことは『[[植木等とのぼせもん]]』第三話「俺たち戦友」でとりあげられている。</ref>。
*クレージーキャッツとして都内及び地方公演終了後は全員で食事会、その後は下戸の谷啓、植木等、犬塚弘の3人だけがそのまま店に留まりギャグネタを考えた植木等はステージで疲れきって寝てしまうのが通常で谷啓のアイディアに犬塚が助言やダメだしで決まるパターンが多かった。
*アイディアを出す際も照れ屋らしく決して自分から積極的には話さずアイコンタクトで犬塚ににメモ帳の入った自分の上着のポケットを指してから始まった。
* 恥ずかしがり屋の反面、その自分を嫌って『逆に派手なこともする』性格で、自家用車はずっと[[輸入車|外車]]に乗っていた。一時は、ど派手な[[アメリカ車|アメ車]][[フォード・サンダーバード|サンダーバード]]ばかりに乗っていた。
* [[1968年]]に三鷹市に家を新築したが、[[1969年]][[1月19日]]に火事になり全焼。谷はこの時、「火事のシーンを撮りたい」と、わざわざ家にひきかえし、家庭用8ミリ映画のカメラを持ち出したが、フィルムが入っておらず、撮影できなかったという。また、当時は麻雀に熱中しており(メンバーは、[[小野ヤスシ]]、[[なべおさみ]]、[[人見明]]など)、焼け跡に麻雀牌と麻雀卓が残っていたことから、焼け跡で見舞い客たちと麻雀を打った。これは、平静であることを示して見舞い客を安心させるための行為と説明されている。このように、谷の奇行には、目立つのを避けるために大きなサングラスをかけて逆に目立ってしまう、という類の「天然」なものが多い。