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「清朝考証学」の基礎は、漢代以来の学術の再発見とその復元、そしてその新しい統合を行うというところにあった。清朝時代、[[乾隆帝]]・[[嘉慶帝]]の両帝の治世に、「[[経学]]」の精密化をめざす学術運動が展開した。学風としては博識に養われた鑑識眼をもって個別事象の確定を追求する学風と、明確な学的プログラムをもって個別事象の背後にある論理を解明せんとする学風との二つに見分けられ、前者を代表するのが呉派の[[銭大昕]]、後者を代表するのが皖派の[[戴震]]であった。一七五四年(乾隆一九年)にこの[[戴震]]が故郷より都に上り、その学名を轟かせてからが「清朝考証学」の本格的な形成期であったとされる。
また[[戴震]]が登場しなければ、当時の学問は、文献資料の収集と鑑定、個別考証の洗練という、乾隆期の文物に共通する「回遊庭園」風の姿だけに終わった可能性もあるとされる。この[[戴震]]がもたらしたのは学術活動が「学」としての集約性と方法的な構築性を持つに必要な基本的認識とプログラムである。
「清朝考証学」の研究対象は、「[[経書]]」のみならず、やがて[[史学]]・[[諸子学]]の書籍にもおよび、「[[経学]]」離れの様相を呈するに至ったが、上記の学術運動の形成が、漢代以来の「[[経学]]」の批判的解読に始まり、「[[経学]]」の改新を目指す形で起こったことは揺るがない事実であった<ref>{{Cite book|和書|author=木下鉄也|authorlink=木下鉄也|title=[[「清朝考証学」とその時代]]|publisher=[[創文社]]|origdate=1996-1-20|page=83}}</ref>
<ref>{{Cite book|和書|author=木下鉄也|authorlink=木下鉄也|title=[[「清朝考証学」とその時代]]|publisher=[[創文社]]|origdate=1996-1-20|page=83}}</ref>
 
== 考証学の方法論 ==