「大江磐代」の版間の差分

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9歳のときに[[浪人]]して[[開業医|町医者]]となっていた父・宗賢とともに[[京都|京]]に上がる。養女となり[[櫛笥家]]に仕えるなどの経緯をへて、十代のころには[[橘氏|橘姓]]を名乗り「大江留子」として[[籌宮成子内親王]]の[[侍女]]となった。
 
その後、成子内親王が[[閑院宮典仁親王]]に嫁ぐと磐代も[[女房]]として親王の寵愛を受け、三人の皇子をもうけた。その長男で閑院宮典仁親王第六王子・師仁王は、皇子のいなかった[[後桃園天皇]]の第一皇女・[[欣子内親王]]を[[中宮]]に迎え即位した。天皇の生母としては、当時では異例の出自の低さであった。
 
典仁親王没後は出家して蓮上院となり、次男で[[聖護院]]門跡宮家を継いでいた閑院宮典仁親王第七王子・盈仁入道親王のもとで暮らした。父・[[岩室宗賢]]もその縁で家臣に取り立てられ[[法橋]]の位を与えられていた。