「今川範忠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
21行目:
| 特記事項 =
}}
'''今川 範忠'''(いまがわ のりただ、[[1408年]]([[応永]]15年)-[[1461年]][[7月4日]]([[寛正]]2年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])?)は、[[室町時代]]中期の[[守護大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の第5代当主。
 
==人物==
第4代当主[[今川範政]]の次男として生まれたが、兄の[[今川範豊|範豊]]の死によって嫡子となる。だが、父が晩年に範忠を廃嫡して異母弟の[[小鹿範頼|千代秋丸]]に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。[[永享]]5年([[1433年]])、父が死去すると[[鎌倉公方]][[足利持氏]]との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、[[狩野氏]]や[[富士氏]]など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景に[[三河]]・[[遠江]][[守護]]の[[斯波氏]]の部隊などが派遣され<ref>水野 2019 pp.63</ref>、これを鎮圧している。
 
これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、[[永享の乱]]や[[結城合戦]]では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「'''天下一苗字'''」(この世に一家だけの姓とする)の[[恩賞]]が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の[[今川範将|範将]]は[[堀越氏]]を名乗ったとされる(異説あり)。
34 ⟶ 35行目:
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
==参考文献==
*水野 茂 2019年「徳願寺山城」『今川氏の城郭と合戦(図説日本の城郭シリーズ11)』[[戎光祥出版]] pp.60-63
 
{{今川氏歴代当主|駿河今川氏|第7代|1433年 - 1461年}}