「ヴァイマル共和政」の版間の差分

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=== 共和政の終末 ===
{{main|ナチ党の権力掌握}}
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1978-096-03, Mecklenburg, Wahlpropaganda der NSDAP.jpg|thumb|180px|ナチ党のポスター貼りをする[[突撃隊]]員(1932年6月21日)]]
シュライヒャーは友人の[[フランツ・フォン・パーペン]]を推薦し、6月1日にパーペン内閣が成立した。パーペン内閣は事前のヒトラーとの合意に基づいて突撃隊禁止命令を解除と国会解散を行ったものの、ナチスは態度を翻して内閣を攻撃した。6月16日からローザンヌ会議が開催され、賠償金は30億マルクに減額された上に状況によっては支払わなくてもよいという、事実上の賠償問題解決が決定された。しかしあくまでヴェルサイユ体制の解消を訴えたナチスはこの会議も失敗であるとして攻撃した。突撃隊の活動はますます活発になり、多数の死者を出す事件が続発した。7月14日、パーペンは事件を理由に[[プロイセン州]]政府を解体し、自ら[[国家弁務官]]となってプロイセン州を掌握し、いわゆる{{仮リンク|プロイセン・クーデタ|de|Preußenschlag}}を起こす。この措置は国事裁判所によって違法と判断されたが、パーペンは従わなかった。これは高度な自治を許されていた各州に対する中央権力介入のはじまりとなった。