「ジェームス・ブラウン」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Mistabassman (会話 | 投稿記録) 生い立ち部分に脚注。他のミュージシャンにリンクしている他不正、不適切なrefを除外 |
|||
36行目:
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、[[サウスカロライナ州]]バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも[[1928年]]
教護院での服役中に、ブラウンは[[ボビー・バード]]と知り合った<ref>[http://www.historyvshollywood.com/reelfaces/get-on-up/ Get On Up True Story vs. Movie - Real James Brown, Bobby Byrd]</ref>。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、[[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ
=== 1950年代(ミスター・ダイナマイト)===
ブラウンとバードの妹サラは、[[1955年]]から[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、[[オハイオ州]][[シンシナティ]]で[[シド・ネーサン]]の[[キング・レコード (アメリカ)|キング・レコード]]<ref>ハンク・バラードや、ゴスペルのミュージシャンらが所属していた</ref>と契約を結ぶ。
シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ ''Please, Please, Please''」<ref>
これらの初期の録音には「''I'll Go Crazy''」(1959)「''Bewildered''」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、ルイ・ジョーダン、エイモス・ミルバーン、ワイノニー・ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「[[ファンク]]」と呼ばれるスタイルに発展し、[[Pファンク]]<ref>ジョージ・クリントンのパーラメント、ファンカデリックなどのバンド群を指している</ref>、スライ・ストーン、[[プリンス (歌手)|プリンス]]などに強い影響を与えた。
66行目:
=== 1970年代(ファンキー・プレジデント)===
60年代末から70年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「[[セックス・マシーン (曲)|セックス・マシーン]]」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ<ref>ブレイクダンスの課題曲として有名</ref>」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」
* 1970-71年ごろの主要メンバー
* [[クライド・スタブルフィールド]](Clyde Stubblefield) - ドラムス
96行目:
* [[:en:Lyn Collins|リン・コリンズ]](Lyn Collins) - ボーカル
72年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。73年、74年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。[[1974年]]には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカの[[ザイール]](現[[コンゴ民主共和国]])の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者[[モハメド・アリ]]<ref>ベトナム徴兵拒否のため、一度王座をはく奪された</ref>と王者[[ジョージ・フォアマン]]が対戦し、「世紀の一戦」「[[キンシャサの奇跡]]」と謳われた。この試合をプロモートした[[ドン・キング]]が同時に開催した[[アフリカのウッドストック]]と宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『
その後、1975年頃から起こった「[[ディスコ]]・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ・サウンドの中のファンキーな部分のオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『''Get Up Offa That Thing''』や77年の『''Bodyheat''』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎えた。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。
===1980年代(アイム・バック)===
[[1980年]]、映画『[[ブルース・ブラザース]]』に出演。[[1984年]]、ラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を集めた。[[1986年]]1月23日には[[ロックの殿堂]]入りした他、[[映画]]「[[ロッキー4/炎の友情]]」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして86年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに[[1988年]]には、フルフォースのプロデュースによる傑作「アイム・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパーたちによって非常に多くサンプリングされた。
しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され
=== 1990年代 ===
109行目:
[[1992年]]2月25日、ブラウンは第34回[[グラミー賞]]特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、[[1993年]]11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り ''James Brown Boulevard''」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュージック・ファクトリーと,
ソウルIIソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム「ユニバーサル・ジェームス」も発表された。1993年1月21日には「セックス・マシーン」の再録音盤「SEX MACHINE'93」を日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしては好調な売上を記録した。
1992年、日本で[[日清食品]]「[[カップヌードル]] みそ(初代)」のCMに出演。「セックス・マシーン」の「ゲロッパ(ゲロンパ)!」を「ミソンパ!」と歌うというパロディだった<ref name=NK930302>「歌い分けがミソ『セックス・マシーン'93』 『ミソンパ!』の掛け声CMのみ」『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1993年3月2日付、23頁。</ref>。1993年1月21日には「セックス・マシーン」の再録音盤「SEX MACHINE'93」を日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしては好調な売上を記録した<ref name=NK930302 />。▼
=== 2000年代 ===
131 ⟶ 129行目:
12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、[[M.C.ハマー]]などの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバーの参列が少なかったことは残念だった。ブラウンが逝去する直前に病床で話した、ブラウンのマネジャーであるチャールズ・ボビットはそのスピーチで、ブラウンが最後まで仕事のことを気にしていたこと、マイケル・ジャクソンやプリンスとしなければならない仕事があるのだと、最後に話したことを明かした。
ブラウンは、4度の結婚を経験した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。
142 ⟶ 139行目:
== エピソード ==
* 世界的ミュージシャンの中でも驚異的な記憶力で知られていた。無名時代からの世話になったDJや関係者の名前などを覚えており、相手の人物がどうせ忘れているだろうと思い込んでいても、ブラウンはフルネームで覚えており、「あの時はありがとう」と語ったという。▼
* グッチ裕三は、ジェームス・ブラウンの大ファンでJBの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。他にドン勝本もJBの大ファンだった。▼
* [[マイケル・ジャクソン]]とプリンスは、ジェームス・ブラウンから大きな影響を受けている<ref>http://blackmusicscholar.com/the-influence-of-the-century/</ref>
▲*
プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。▼
▲* グッチ裕三は、ジェームス・ブラウンの大ファンでJBの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。他にドン勝本もJBの大ファンだった。
客席にいたマイケルとプリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びた。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼んだ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻った。▼
▲*プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。
▲客席にいたマイケルとプリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びた。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼んだ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリは[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]だった。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
* ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニット[[フレンズ・オブ・アース]]の『SEX ENERGY & STAR』には、”ブラウン自身の歌唱”と[[メイシオ・パーカー]]のベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
* メンバーがメディアでたびたび語っているが、ジェームス・ブラウンの来日公演を実現した際、アリスが多額の借金を背負ったというのは事実である。
▲1992年、日本
<!--*スパイク・リーがJBをテーマとした新作映画の準備にはいった。JB伝説はまだまだ続く。将来のことなのでコメントアウトで-->
|