「吉良義安」の版間の差分

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ただし、この間の経緯について『寛政重修諸家譜』は、永禄4年(1561年)、[[今川氏真]]が義安の謀反を疑って駿河に抑留し、かわりに義昭を東条に移して両吉良氏を併せたとしている。更にこれとは別に近年の研究として、『松平記』に記された弘治年間の吉良氏の挙兵について、駿府に送られた吉良義安は一旦は赦されて両吉良氏の当主として三河への帰国を許されたものの、弘治元年(1555年)に再度今川氏に対して兵を挙げたもので、最終的に弘治3年(1557年)に三河を追放されたものとする。また、弘治3年に西条吉良領で今川氏が大規模な検地が行われているのは、義昭を東条に移した形を取っているものの、実際には西尾城と西条領は今川氏によって直轄地にされたものとする<ref>小林、2019年、P266-276.</ref>。
 
小林輝久彦は『[[信長公記]]』に弘治3年4月に行われてたと推測される上野原参会(「吉良殿」と尾張守護家の[[斯波義統]]を仲介として今川義元と[[織田信長]]が和解をしようとしたものの、どちらを上座にするかで揉めて和解は成立しなかった)の「吉良殿」を義安と推測し、織田氏と結びついて反乱を起こしていた吉良義安を義元が利用することで信長と和睦しようとしたものの失敗に終わったために義安が三河にいられなくなって尾張に逃れ、更に斯波義統や[[石橋氏]]と信長排斥を企てたとして尾張からも追われて三河に帰国したところ、『寛政重修諸家譜』にあるように今川氏真によって再度幽閉されたとする説を唱えている(小林は今川氏からすれば、天文18年の挙兵の際には今川氏の宗家としての吉良氏の立場を慮って義安を赦免して両吉良氏の当主の地位を保証したのに、それがことごとく裏切られた結果、義昭の擁立に踏み切ったとしている)<ref>小林、2019年、P263-265・272-273.</ref><ref>小林は今川氏の複雑の対応や江戸時代以降の記録が矛盾している背景について、今川氏にとって吉良氏はあくまで宗家であったこと(天文18年9月5日付で義元が太原雪斎から吉良義安に充てた書状は、義安を「御屋形様」と呼んだ上に宛先も義安本人ではなく「西条諸老」宛となっており、現実今川義元の重臣である雪斎が吉良氏の陪臣しての書札礼における主従関係が逆転してしまっを用いている)、高家吉良氏(義安の子孫)と高家今川氏(義元の子孫)は江戸時代初期には互いに婚姻を結ぶ間柄となっており、両家の祖先である吉良義安と今川義元の対立の事実そのものが隠蔽すべき事実となっていたことを指摘している(小林、2019年、P252-254・270-271.)。</ref>。
 
一方、弟の吉良義昭は今川氏の後援を失って孤立し、徳川家康への屈従を余儀なくされていた。永禄5年([[1562年]])、義昭は再起を図って三河の一向宗門徒と結び、徳川氏と戦ったが([[三河一向一揆]])、敗れて三河から逃亡する。このあと、家康から義安が東条西条の吉良氏を統一して領有することが認められた。