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===日本着任まで===
[[1841年]]、[[オスマン帝国|トルコ]]の[[イスケンデルン湾|アレクサンドレッタ]]の副領事、[[1847年]]には[[ブルガリア]]の[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]領事、その後[[ギリシア]]、[[ボスニア]]に転勤し、[[1861年]]、[[清]]のイギリス[[公使館]]書記官となって[[北京]]に赴任した。
===駐日英国代理公使===
初代の[[駐日英国大使|駐日英国公使]]である[[ラザフォード・
1862年[[9月14日]]([[文久]]2年8月21日)、[[薩摩藩]]士によるイギリス人殺傷事件([[生麦事件]])が発生した。横浜領事[[ハワード・ヴァイス
[[1864年]]にオールコックが公使に帰任すると、イギリスへ帰国した。
===その後===
[[1864年]]に発生した[[下関戦争]]に関して、半ば解任される形でオールコックは本国に召喚された。ニールは再び代理公使の候補となったが、健康が優れず実現しなかった。その後、[[アテネ]]公使館書記官、[[エクアドル]]の[[グアヤキル]]の領事を務めたが、在任中の[[1866年]][[12月11日]]に同国の首都である[[キト]]で病気により没したが、日本駐在時より病気の初期症状が現れていた<ref name="col.Neale"/>。
==生麦事件の解決交渉==
[[9月14日]]([[文久]]2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]])の生麦事件発生直後、横浜居留の外国人たちは、横浜に停泊中の英・仏・蘭の軍艦から陸戦隊を出し、[[保土ケ谷区|保土ヶ谷]]に宿泊している[[島津久光]]一行を襲撃する計画を立てたが、ニールはこれを認めなかった。フランス公使[[ギュスターヴ・
[[12月4日]](文久2年10月13日)、ニールは[[江戸城]]に登城し、第二次東禅寺事件の賠償交渉を開始した(生麦事件に関する本国からの訓令はまだ届いていなかった)。第二次東禅寺事件に関しては、本国の外相[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ラッセル]]
[[1863年]][[1月28日]](文久2年12月9日)、[[外国奉行]][[竹本正雅]]がニールを訪れ、[[御殿山 (品川区)|御殿山]]に建設中の新公使館の使用中止(この3日後に[[高杉晋作]]等による[[英国公使館焼き討ち事件|焼き討ち]]にあった)を依頼するとともに、将軍が天皇の説得に失敗した場合には内乱となる可能性があること、その場合には英国は幕府を援助してくれるかを尋ねた。ニールは幕府への精神的支援として可能な限りの艦隊を横浜に集結させると回答し、実際にキューパーにこれを依頼した。
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[[3月22日]](2月4日)、一旦[[香港]]に戻っていたキューパーが3隻の軍艦を率いて横浜に到着した。さらに後続の艦が到着し、以前から横浜に停泊してた艦と合わせると12隻の大艦隊が横浜に集結した。この艦隊はもともとは「幕府への精神的支持」のためのものであったが、生麦事件交渉にあたり幕府への大きな圧力となった。[[4月6日]](2月19日)、ニールは日本語通訳官のユースデンを江戸に送り、東禅寺事件の賠償を再度要求するとともに、生麦事件に関する要求を幕府に伝え、20日間の猶予期間を与えた。この間に、幕府と英国の間に戦闘が開始されるのではないかとの噂が流れ、横浜の日本人は恐慌状態となり、多くが横浜を脱出した。
ところが、将軍[[徳川家茂]]以下主要な幕閣は[[京都]]に出向いており、江戸の留守政府はこのような重大な決定を下せず、[[4月24日]](3月7日)さらに30日の猶予を求めてきた。ニールは15日の猶予を認めたが、[[5月2日]](3月15日)、幕府がさらに15日間の猶予を求めてきたため、ニールは信頼できる高官の派遣を要請した。早速外国奉行竹本正雅と[[竹本正明]]が横浜に派遣され[[5月4日]]・5日の両日、ニール、デュシェーヌ・ド・ベルクール、キューパー、フランスの[[バンジャマン・
期限から2日遅れた5月25日(4月8日)、竹本は横浜に戻り、軍事援助の申し出を断ると同時に、一両日中に賠償金の支払い方法を決定することに合意した。ところが竹本は「病気」になってしまい、代わりに6月7日(4月21日)になって外国奉行[[菊池隆吉]]がニールを訪れ、支払い方法の交渉に入った。翌日、賠償金総額44万ドル(11万ポンド)のうち、14万ドルを10日以内に支払い、残り30万ドルは5万ドルずつ毎週支払うことで合意した。しかし、ニールはこの時点でも実際に賠償金が支払われるか、軍事行動を取る必要があるかは五分五分と見ていた。
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その後[[6月14日]](4月28日)に、[[6月18日]](5月3日)を第一回目の支払日とすることが文書で確認された。ところが少し遡る[[6月6日]](4月20日)、京都の[[徳川家茂]]は[[6月25日]](5月10日)をもって攘夷を実行すると[[孝明天皇]]に約束させられていたのである。このため、支払い当日の朝になって、幕府は賠償金支払い中止し、[[老中]][[小笠原長行]]が[[6月20日]](5月5日)に出向く旨を伝えてきた。当然のことながら、ニールは激怒し、12時間の猶予は与えたものの、全額一括払いを条件として付け加えた。解決を目前にして事態は急展開し、結局6月20日、ニールは幕府に対する軍事行動をキューパー提督に委ねた。
まさに戦争直前の状態となったが、幕府はフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールとアメリカ公使[[ロバート・
==脚注==
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