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== 経歴 ==
天竺に生まれたが、ある時期を境に[[遼東]]へ移り住んだという。
[[305年]]頃、傭兵稼業を行っていた[[石勒]]に合流し
以後も石勒に仕え、[[309年]]には爪牙に任じられた。その後、中堅将軍に昇進した。
[[312年]]2月、石勒は葛陂に駐屯していたが、[[江南]]に割拠する琅邪王[[司馬睿]](後の元帝)はこれを討伐する
12月、[[幽州]][[刺史]][[王浚]]は石勒へ備える
後に左司馬に任じられた。
[[330年]]2月、石勒が趙[[天王]]に即位すると、夔安は[[尚書令|尚書]]に任じられた。その後、鎮軍将軍を加えられた。
[[333年]]7月、石勒が崩御して[[石弘]]が即位すると、政治の実権は[[石虎]]が握るようになった。8月、夔安は石虎により領左僕射に任じられた。
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334年11月、石虎が石弘を殺害して居摂趙天王を称すと、夔安は[[侍中]]・[[太尉]]・[[尚書令]]に任じられた。その後、さらに[[太保]]に移った。
[[337年]]1月、夔安は文武の群臣500人を伴って入宮し、[[皇帝]]へ即位するよう石虎へ上奏した。これを受け、石虎は[[殷]]・[[周]]の制度を根拠に大趙天王を称した。夔安らが宮殿に入ろうとした時、庭燎の油が下盤へ
ある時、[[楡社県|武郷県]]社城からの移民である[[韓彊]]は玄玉璽を発見した。その大きさは1方が4寸7分あり、亀紐には[[金文]]が施されていた。韓彊は鄴に詣でると、石虎にこれを献上した。これにより韓彊は騎都尉を拝命し、その一門は税を免じられた。これを聞いた夔安は再び群臣と共に「臣らは謹んで案じます。大趙は水徳であり、玄亀というのは水の精であります。また、玉というのは石の宝であります。7分というのは7政を象徴し、4寸というのは4極をなぞらえているのです。これは昊天が命を成したものであり、躊躇してその命に違ってはなりません。そこで、すぐさま史官に吉日を選ばせ、礼儀を備えるべきです。昧死して皇帝の尊号を称する事を申し上げます」と勧めた。石虎は下書して「過ぎたる褒美が繰り返され、猥りに推逼されているように見える。増えるを見るに恥じ入るばかりであり、我の望む所ではない。速やかにその議を止めるように。今、東から告始(始まりを告げる兆し)が作られたというのも、京城の内外の事ではない。慶を表する事はない」と述べた。
[[339年]]8月、西晋の[[荊州]]刺史[[ユ亮|庾亮]]が[[武昌郡|武昌]]を鎮守するようになると、配下の[[毛宝]]・[[樊峻]]に邾城へ出鎮させて北伐の拠点としたので、石虎はこれを患った。その為、夔安は[[都督|大都督]]に任じられると、[[石鑑]]・[[石閔]]・[[李農]]・[[張賀度]]・[[李菟]]の5将軍を従え、5万の歩兵で荊州・揚州北辺に、2万の騎兵で邾城に侵攻させた。毛宝は庾亮に救援を要請したが、庾亮は城を固く守って動かなかった。
9月、石閔は沔陰において東晋軍を破り、将軍[[蔡懐]]の首級を挙げた。夔安は李農と共に沔南を攻め落とし、石宣配下の将軍[[朱保]]は白石において東晋軍を破り[[鄭豹]]・[[談玄]]・[[郝荘]]・[[随相]]・[[蔡熊]]の5将を討ち取った。張賀度は邾城を攻め落とし、6千人<ref>『晋書』には1万人余りとも</ref>を討ち取った。毛宝・樊峻は包囲を突破して逃走したが、長江において溺死しした。夔安は軍を進めて胡亭へ至ると、[[江夏郡|江夏]]へ侵攻し、将軍[[黄沖]]・[[義陽郡]][[太守]][[鄭進 (東晋)|鄭進]]を尽く降した。夔安はさらに進んで石城を包囲すると、[[竟陵郡]]太守[[李陽 (東晋)|李陽]]に防衛を破りって城を攻め落とし、5千人余りの首級を挙げた。その後、夔安は軍を撤退させると、漢東で略奪して7千戸余りを手に入れ、幽州・冀州へ移住させた。
[[340年]]9月、この世を去った。
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