「戴季陶」の版間の差分

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| 画像=[[Image:Daichuanxian.jpg|180px]]
| 画像の説明=1920年代前半の撮影
| 出生=[[1891年]][[1月6日]]<br/>([[]][[光緒]]16年11月26日)
| 死去=[[1949年]][[中華民国紀元|民国]]38年)[[2)2月12日]]<br/>{{ROC}}[[広東省 (中華民国)|広東省]][[広州市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[四川省]][[成都市|成都府]][[広漢市|漢州]]
| 簡体字={{lang|zh-hans|戴季陶}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|戴季陶}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Dài Jìtáo}}
| 注音=
| 注音二式=Dài Jìtáo
| 和名=たいきとう
| ラテン字=Tai Chi-t'ao
}}
 
''' 戴 季陶'''(たい きとう)は中華民国の政治家。孫文の側近、蔣介石の次男蔣緯国の実父であり、民国期の知日家、中華民国国歌の作詞者でも知られる。名は'''傳賢'''(伝賢)、[[字]]は'''季陶'''、'''選堂'''など、号は'''天仇'''、'''孝園'''、法名は'''不空'''、'''不動'''、筆名は'''散紅'''・'''泣民'''・'''思秋'''など。
 
 庚寅年(光緒十六年)十一月二十六日(1891年1月6日)、四川省成都府漢州(民国期は広漢県)で生まれた。原籍は浙江省湖州府(民国期は呉興県)。1949年2月12日、広東省広州市で没した。
 
 戴季陶はその生涯ほぼ全時期を通じて、日本政府の朝鮮政策と中国政策を批判し、中国における共和政治建設を追求し、また、西方に対する東方(中国を代表とする)の復興を追求し続け、その条件として、国民の意志や理念といった、ある国民をその国民たらしめるものとしての思想(戴季陶は「国民精神」と称した)を重視し、その統一を図らなければならないとして、そのために、東方古来の利他の精神を復興させつつ、西方の人道や平等の思想を受容すべきであると訴えた。
 
== 人物歴 ==
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== 戴季陶の日本観 ==
 戴季陶は「最近之日本政局及其対華政策」(1917-18年)、「我的日本観」(1919年)などでその日本への関心を示している。とりわけ、『日本論』(1928年)は、近代中国人が著した最も有名な日本論の一作品と見なされている。
 
 戴季陶が日本論を執筆した動機は、田中義一内閣を批判すること、この内閣の対中国政策を日本の最終決定と見なし、その破滅的な結果を予測し、日本人に警告することである。
 
 戴季陶は明治維新を分析し、日本が江戸幕府までの精神遺産により独自の近代化に成功したと説明する。そこで「武士道」に見られる犠牲精神を特筆する。日露戦争後の日本は、「尚武」の気象が国民全体から失われて軍国主義が幅をきかすようになり、他国の侵略に走るようになった、という。
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 ただし、戴季陶は『日本論』執筆の以前も以後も、日本に関する評論を多数著しているので、戴季陶の日本観を『日本論』に集約させる考え方は不適である。
 
== 戴季陶の著作・日記の単行本 ==
 
*『天仇文集』上海:民権報発行部、1912年11月(→影印版:『宋漁父戴天仇文集合刻』上海:国光図書館、1921年7月)(→影印版:呉相湘主編『戴天仇文集』台北:文星書店、1962年6月)
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*『戴季陶文存<戴季陶先生的文存?>』中国革命書店、出版時間不詳
 
== 戴季陶に関する評伝・研究(日本語以外は主要なもののみ、適宜更新) ==
 
*代英(惲代英)「読『孫文主義之哲学的基礎』」(『中国青年』第87期、1925年8月8日付)
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*朱虹「戴季陶における国民精神論の創出:「内なる近代化」への思想的道程」同志社大学大学院博士論文、2015年
 
==そのほかの参考文献==
 
*陳徳仁・安井三吉編『孫文・講演「大アジア主義」資料集:1924年11月 日本と中国の岐路』京都:法律文化社、1989年