「クラウディオ・モンテヴェルディ」の版間の差分

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モンテヴェルディの次の大きな作品は1610年の『[[聖母マリアの夕べの祈り]]』(''Vespro della Beata Vergine''、『聖母マリアの[[晩課]]』とも)であった。出版譜に書かれた音楽の規模が非常に大きいために、一回の礼拝ですべて演奏することを目的としていたかどうかについては意見が分かれている。ただし、音楽的には全体の統一性が方々に見られる。
 
1612年7月にヴィンチェンツォ公爵が没し、マントヴァ公爵の位をついだ[[フランチェスコ4世・ゴンザーガ|フランチェスコ]]は経済難からモンテヴェルディを解雇した。モンテヴェルディは約1年間にわたり、定職を持たずに[[クレモナ]]で過ごした<ref>{{cite book|和書|author=ヴルフ・コーノルト|year=1998|translator=津上智実|title=モンテヴェルディ|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=427622165X|pages=74-77}}</ref>。
 
1613年、モンテヴェルディは[[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ寺院]]の楽長に任命され、すぐに前任者[[ジュリオ・チェザーレ・マルティネンゴ]]の財政的失策によって衰微していた合唱隊および器楽隊を建て直した。聖堂側は1609年の[[ジョヴァンニ・クローチェ]]の死後衰退の一途をたどっていた聖堂の音楽が建て直されたことに安堵したという。