=== グラウビュンデン戦争:1620-1639 ===
一方、ミラノからアルプス、チロルへ抜ける[[ヴァルテッリーナ|バルテリナ(ヴァルテッリーナ)]]は、オーストリアとスペイン領イタリアを結ぶ最短陸路であったため、ハプスブルク家は支配を望んでいた<ref name=Sigfrid/>。バルテリナは[[スイス]]と結ばれたゆるやかな諸州同盟[[グラウビュンデン州|グラウビュンデン]]に従属していた<ref name=Sigfrid/>。フランスとヴェネツィアはハプスブルク家に対抗し、ゲオルク・イェーナッチュを中心に派閥争いが起こったところ、1620年、スペインがバルテリナを占領した<ref name=Sigfrid/>。その後1624年フランスが占領したが、1626年のモンゾン条約でスペインとフランスの共同保護領となった<ref name=Sigfrid/>。しかし1628年からのマントバ継承戦争の際、再びハプスブルク軍が占領、1635年にはフランスが奪回し、1639年にはグラウビュンデンがフランスに反撃して、1639年9月3日のミラノ講和でグラウビュンデンはスペインへの従属となった<ref name=Sigfrid/>。
=== スウェーデン・ポーランド戦争 ===
{{See|スウェーデン・ポーランド戦争}}
スウェーデン[[ヴァーサ王朝|ヴァーサ家]]のシギスムンド([[ジグムント3世]])[[ポーランド・リトアニア共和国]]王は、[[1592年]]にスウェーデン王に即位したが、カトリックであったシギスムンドはスウェーデンで[[対抗宗教改革]]として強硬なカトリック化政策を行った<ref name=poland135>『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、p.135</ref>。[[1599年]]、カトリック化政策に反発した[[ルーテル教会|ルター派]]はプロテスタントのカール([[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]])を擁立してシギスムンドを廃位し、カールは軍を組織し、シギスムンドを破った。
カールは[[1600年]]の[[リンシェーピング|リンシェーピングの血浴]]でカトリック派の貴族を[[粛清]]した<ref name=hokuou>[[#百瀬・熊野・村井編 1998]],p146-147</ref>。
シギスムンド王に反発した[[ヤン・ザモイスキ|ザモイスキ]]宰相は1605年、イエズス会士の追放や王権の制限を要求して内戦となったが、国王軍の勝利に終わった<ref name=poland135/>。
1605年、[[モスクワ大公国]]の[[動乱時代]]に乗じて[[ポーランド・リトアニア共和国]]が介入した([[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)]])。戦争で共和国の財政は弱体化した。
スウェーデンが[[1605年]]に[[リヴォニア]]の[[リガ]]に侵攻したが陥落に失敗、ポーランド・リトアニア軍に[[キルホルムの戦い]]で惨敗した。
1609年、シギスムンドがロシア皇帝位を得ようとする企てを阻止するため、ロシアの[[ヴァシーリー4世]]からの支援に応じて、カールはロシアの大混乱に介入する<ref name=hokuou/>。ロシアとの軍事行動のためにバルト海を封鎖すると、デンマークと[[カルマル戦争]]([[1611年]])となった<ref name=hokuou/>。戦中にカールは死去し、グスタフ・アドルフが即位した<ref name=hokuou/>。
1617年の[[ストルボヴァの和約]]で[[カレリア]]と[[イングリア]]を獲得し(イングリア戦争)、これによって、スウェーデン領だった[[フィンランド]]と[[エストニア]]を結ぶこととなり、[[フィンランド湾]]はスウェーデンの内海となった<ref name=Sigfrid/>。
スウェーデンは[[ポーランド・リトアニア共和国]]との戦争は1614年から17年まで休戦していたが<ref name=hokuou/>、1621年に[[リヴォニア]]を征服し、[[リガ]]港を獲得した<ref name=Sigfrid/>。さらにプロシア公国からメーメルとピラウを奪った<ref name=Sigfrid/>。
1628年、ヴァレンシュタインが[[シュトラールズント攻囲戦 (1628年)|シュトラルズント港を包囲]]したため、スウェーデン軍が派遣され、1629年9月のアルトマルクの休戦条約をスウェーデンとポーランドは結び、リヴォニアとプロシア諸港はスウェーデンのものとなった<ref name=Sigfrid/>。
=== デンマーク戦争 ===
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