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Mikiron (会話 | 投稿記録)
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この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。孫権らの軍勢が寡兵であることを見た張遼は七千余の騎兵を引き連れ、城から出て追撃した。退路には川が流れており、逍遥津に津橋という橋が架かっていた。この時、孫権の大軍が既に前線から撤退し、逍遥津の北には孫権と残りの近衛歩兵千余人と、[[呂蒙]]・[[蒋欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残るのみであった。孫権軍は張遼に追撃され、呂蒙・凌統が奮闘で殿軍を務め、これに応戦した。孫権は騎射で急襲に応じ、命からがら橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下300人を全滅させ、凌統は張遼軍を数十人殺し、全身に傷を負いながらも、孫権が退却したことを知ると泳いで退げた。
 
孫権の勇武と騎射には張遼に賛嘆させられ<ref>『孫権伝集解』</ref>、張遼が孫権を知らなかった。戦いの後、張遼が呉の降兵に「今さっき紫髯の将軍で、背丈は高いが足が短く、馬にたっしゃで弓のうまい者がいたが、あれは誰だ」と尋ねると<ref>『献帝春秋』『資治通鑑』</ref>、降兵は「あれが、孫会稽(孫権)さまです」と答えたと、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。張遼はこの戦功で征東将軍に任命された。
 
建安21年([[216年]])、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼が戦った場所を見て嘆息したという。張遼の兵士を増加させ、居巣に駐屯させた。