「フュステル・ド・クーランジュ」の版間の差分

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== 生涯 ==
祖先は[[ブルターニュ]]出身で、父や祖父は海軍士官をつとめた。[[パリ]]で生まれ、生後1年3ヶ月で父を失う。[[1853年]]に[[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル・シュペリウール]]を卒業すると同時に、[[アテネ・フランス学院]]の研究生に選ばれ、2年間を[[アテネ]]で遊学した。この期間で彼がもっとも好んで訪れたのは[[キオス島]]であり、それは処女作「キオス島についての覚書」として結実した。帰国後、5年間を中学教師として過ごし、[[1860年]]には[[ストラスブール大学|ストラスブルク大学]]の教授に任命された。代表作『[[古代都市]]』(『La Cité Antique』)は、大学で行われた連続講義によるものであったが、当時クーランジュは無名であり、当初は600部の[[自費出版]]で600部が公にされたに過ぎなかったという。[[1870年]]に文相であり歴史家でもあった[[ヴィクトール・デュリュイ]]に推薦され、母校のエコール・ノルマルの教授に任命され、つた。[[1875年]]に[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]に転じ、[[1880年]]にはエコール・ノルマルの校長となり、[[1883年]]にソルボンヌに復帰した。学問上の刻苦勉励、過労によを得て59歳でパリするした
 
== 方法 ==