「ブランデンブルク州 (1945年-1952年)」の版間の差分

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{{Otheruses|[[ソ連占領地域]]及び[[ドイツ民主共和国]]初期の州|[[ドイツ連邦共和国]]の州|ブランデンブルク州}}
{{基礎情報 過去の国
{{Infobox Former subdivision
|日本語国名=ブランデンブルク州
|conventional_long_name={{native name|de|Land Brandenburg}}
|公式国名='''{{lang|de| Provinz Mark Brandenburg}}'''<br/><small>(1945-1946年)</small><br/>'''{{lang|de|Land Brandenburg}}'''<br/><small>(1946-1952年)</small>
|native_name=ブランデンブルク州
|建国時期=1945年
|common_name=ブランデンブルク
|亡国時期=1952年
|subdivision = 州
|先代1=ブランデンブルク州 (プロイセン)
|nation = 東ドイツ
|先旗1= Flagge_Preu%C3%9Fen_-_Provinz_Brandenburg.svg
|status_text = {{plainlist|
|先代2 = ベルリン
*[[ソ連占領地域]]
|先旗2= Flag_of_Berlin_(1934-1954).svg
*[[ドイツ民主共和国]]}}
|次代1=コトブス県
|p1 = ブランデンブルク州 (プロイセン)
|次代2=フランクフルト県
|flag_p1 = Flagge_Preu%C3%9Fen_-_Provinz_Brandenburg.svg
|次代3=ノイブランデンブルク県
|p2 = ベルリン
|次代4=ポツダム県
|flag_p2 = Flag_of_Berlin_(1934-1954).svg
|次代5=シュヴェリーン県
|s1 = コトブス県
|flag_s1 次旗1= Flag of East Germany.svg
|次旗2=Flag of East Germany.svg
|s2 = フランクフルト県
|flag_s2 次旗3= Flag of East Germany.svg
|次旗4=Flag of East Germany.svg
|s3 = ノイブランデンブルク県
|flag_s3 次旗5= Flag of East Germany.svg
|元首等肩書=行政長官
|s4 = ポツダム県
|元首等年代始1=1945年
|flag_s4 = Flag of East Germany.svg
|元首等年代終1=1946年
|s5 = シュヴェリーン県
|元首等氏名1={{仮リンク|カール・シュタインホフ|de|Karl Steinhoff (Politiker)}}
|flag_s5 = Flag of East Germany.svg
|首相等肩書=州首相
|image_flag = Flag_of_Brandenburg_(1945-1952).svg
|首相等年代始1=1946年
|image_coat = Wappen_Mark_Brandenburg_1945-1952.png
|首相等年代終1=1949年
|symbol_type =
|首相等氏名1=カール・シュタインホフ
|symbol =
|首相等年代始2=1949年
|image_map = GDR_location_map_Oct1949_-_Jul1952_BB.svg
|首相等年代終2=1952年
|image_map_caption = ブランデンブルク州(中央右側)
|首相等氏名2={{仮リンク|ルドルフ・ヤーン|de|Rudolf Jahn}}
|capital=[[ポツダム]]
|国章画像= Wappen_Mark_Brandenburg_1945-1952.png
|government_type=共和政 (1949年まで)<br /> [[ドイツ社会主義統一党|SED]]による[[一党独裁]] (1949年-1952年)
|国旗画像= Flag_of_Brandenburg_(1945-1952).svg
|title_leader=州首相
|位置画像=GDR_location_map_Oct1949_-_Jul1952_BB.svg
|leader1={{仮リンク|カール・シュタインホフ|de|Karl Steinhoff (Politiker)}}
|変遷年月日3=1947年2月25日
|year_leader1=1945年&ndash;1949年
|変遷年月日4=1949年10月7日
|leader2={{仮リンク|ルドルフ・ヤーン|de|Rudolf Jahn}}|year_leader2=1949年&ndash;1952年
|変遷年月日5=1952年7月25日
|title_deputy=
|現在={{Collapsible list|titlestyle=background:transparent;text-align:left;font-weight:normal;|title={{flagicon|GER}} '''[[ドイツ]]'''|{{nowrap|[[File:Flag of Berlin.svg|25px]][[ベルリン]]}}|{{nowrap|[[File:Flag of Brandenburg.svg|25px]][[ブランデンブルク州]]}}|{{nowrap|[[File:Flag of Mecklenburg-Western Pomerania.svg|25px]][[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]}}|{{nowrap|[[File:Flag of Saxony.svg|25px]][[ザクセン州]]}}|{{nowrap|[[File:Flag of Saxony-Anhalt.svg|25px]][[ザクセン=アンハルト州]]}}}}
|deputy1=
|公用語=[[ドイツ語]]
|year_deputy1=
|変遷5=州解体
|deputy2=
|現在追記=
|year_deputy2=
|首都=[[ポツダム]]
|legislature=[[ブランデンブルク州議会|州議会]]
|面積値1= 27,612
|era=冷戦
|面積測定時期1=1950年
|date_start=7月9日
|変遷1=成立
|year_start=1945年
|変遷年月日1=1945年7月9日
|event1=
|変遷2=州に昇格
|date_event1=
|date_end変遷年月日2=71947年2256
|変遷3=[[プロイセン]]解体
|year_end=1952年
|変遷4=[[ドイツ民主共和国]]建国
|stat_year1=
|位置画像説明=1947年、連合軍軍政期のブランデンブルク州}}
|stat_area1=
 
|stat_pop1=
'''ブランデンブルク州'''({{Lang-de|Land Brandenburg}})は、[[第二次世界大戦]]後のドイツにおいて、1945年から1949年までの[[ソ連占領地域]]と、1949年から1952年までの[[ドイツ民主共和国]]に置かれていた地方行政区分である。
|today={{flag|Germany}}
}}
'''ブランデンブルク州'''({{Lang-de|Land Brandenburg}})は、[[ソ連占領地域]](後の[[ドイツ民主共和国]])にあった州である。
 
== 概要 ==
現在の[[ドイツの地方行政区分|ドイツ連邦共和国]][[ブランデンブルク州|ブランデンブルク]][[ドイツの地方行政区分|州]]と同じ名称ではあるが、その範囲はやや異なる。
[[第二次世界大戦]]後、[[ソビエト連邦]]の管理地区([[ソ連占領地域]])となった、現在の[[ブランデンブルク州]]に相当する地域に存在していた[[プロイセン自由州]]の{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|label = ブランデンブルク州|de|Provinz Brandenburg}}のうち、[[オーデル・ナイセ線]]よりも東側は[[ポーランド人民共和国]]に編入され、それ以外の地域が'''マルク・ブランデンブルク州'''(プロヴィンツ、[[:de:Geschichte_Brandenburgs#SBZ_und_Land_Brandenburg_.281945_bis_1952.29|Provinz Mark Brandenburg]])となった。[[1947年]]、戦勝国は[[軍国主義]]の温床として{{仮リンク|プロイセン州の廃止|en|Abolition of Prussia|label=プロイセン国家の廃止}}を宣言し、マルク・ブランデンブルク州は'''ブランデンブルク州'''(ラント・ブランデンブルク、Land Brandenburg)となった。
 
[[第二次世界大戦]]後、[[ヤルタ会談]]での合意により、アメリカ軍がドイツ西部に撤退したことを受けて、1945年7月に[[在独ソ連軍政府]]はソ連占領地域のうち、[[プロイセン自由州]]の{{仮リンク|ブランデンブルク州 (プロイセン)|label = ブランデンブルク州|de|Provinz Brandenburg}}を2つに分割し、[[オーデル・ナイセ線]]よりも東側は[[ポーランド人民共和国]]に編入され、それ以外の地域を'''マルク・ブランデンブルク州'''(プロヴィンツ、[[:de:Geschichte_Brandenburgs#SBZ_und_Land_Brandenburg_.281945_bis_1952.29|Provinz Mark Brandenburg]])とした。
 
マルク・ブランデンブルク州は1947年2月の[[:en:Abolition of Prussia|プロイセン州解体]]に伴い、'''ブランデンブルク州'''(ラント・ブランデンブルク、Land Brandenburg)となった。
[[ファイル:Germany_Laender_1947_1990_DDR.png|thumb|{{legend-line|#7d00af solid 1px|1947年-1952年の州境}}{{legend-line|#f00 solid 1px|1990年以降の州境}}]]
[[1949年]]、[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)が成立し、その5州のうちの1州となった。[[1952年]]の地方行政改革により州を廃止し、県を設置することになり、ブランデンブルク州は、概ね{{仮リンク|フランクフルト県|de|Bezirk Frankfurt (Oder)}}と{{仮リンク|ポツダム県|de|Bezirk Potsdam}}になったが、一部は周辺の県に編入された。
 
== 歴史 ==
[[ファイル:Germany_Laender_1947_1990_DDR.png|左|サムネイル|1947年と1990年における州境の差異]]
[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合国によるドイツの占領統治]]が開始された直後の1945年7月、[[在独ソ連軍政府]](SMAD)は占領区域に存在する、[[ベルリン]]<ref>ベルリンは連合国軍による分割占領下に置かれた。</ref>を除くすべての州で新しい政府を任命した。[[ドイツ社会民主党|社会民主党]](SPD)<ref>1946年に[[ドイツ共産党]](KPD)と強制的に合併させられ、[[ドイツ社会主義統一党]]となる。</ref>の{{仮リンク|カール・シュタインホフ|de|Karl Steinhoff (Politiker)}}がマルク・ブランデンブルク州(当時)の州政府主席に指名され、後に州首相となった。
ドイツの戦後処理において、在独ソ連軍政府は1945年7月に占領下にあった各地区に政府を置いた<ref>[[ベルリン]]は連合国軍による分割占領下に置かれていた。</ref>。マルク・ブランデンブルク州の行政長官には{{仮リンク|カール・シュタインホフ|de|Karl Steinhoff (Politiker)}}が任命され、後に彼はブランデンブルク州首相に就任した。
 
[[ブランデンブルク州議会|州議会]]の最初の第1回選挙は1946年10月20日に行わ実施され、ソ連の後ろ楯を得た[[ドイツ社会主義統一党]](SED)得票率43.5%で第一党となり、[[ドイツ自由民主党|自由民主党]]が29.9%、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|キリスト教民主同盟]](CDU)3021.38%、[[ドイツ自由民主党|自由民主党]](LDPD)が20.5%、{{仮リンク|農民相互援助団|de|Vereinigung der gegenseitigen Bauernhilfe|en|Peasants Mutual Aid Association|label = 農民相互協力協会}}(VdgB)が5.7%と続いた<ref>{{cite web |title=Landtagswahlen Brandenburg |url=http://www.wahlen-in-deutschland.de/blBrandenburg.htm |date=25 October 2014 |accessdate=8 June 2017 |work=wahlen-in-deutschland.de}}</ref>。1949年にシュタインホフが退任した後SEDの{{仮リンク|ルドルフ・ヤーン|de|Rudolf Jahn}}が後任の第2代州首相となった。1947年2月には州憲法が採択された<ref>{{cite web |title=Verfassung für die Mark Brandenburg |url=http://www.verfassungen.de/de/bb/brandenburg47-index.htm |date=6 February 1947 |accessdate=8 June 2017 |work=verfassungen.de}}</ref>。ただし、州議会のあらゆるすべての、SMAD在独ソ連軍政府の承認の対象とを経なければならった。
 
1949年10月に[[ドイツ民主共和国]]が建国されると、1950年10月に第2回州議会選挙が行われた州議会。この選挙は、SEDと[[衛星すべての政党]]によっが合同し構成された選挙連合「{{仮リンク|国民戦線 (東ドイツ)|label=国民戦線|de|Nationale Front (DDR)}}が99.9%の得票率占め結成しが、[[秘密投票]]上で行われたも原則で、 候補者リストもあらかじめ体制側侵されてい決め議席配分に基づくものであっめ、自由。す選挙が行れたとち、実際にドイツ社会主義統一党率えなかる翼賛体制への信任投票に過ぎず、投票率も実に99.9%に上った。州議会からは5人議員が選挙に続いて、議会上院にあたる{{仮リンク|共和国参議院 (東ドイツ)|label=共和国参議院|de|Länderkammer der DDR}}に5人の州代表が送られたが、結局れは最初して最後の事例となったが、。ドイツ社会主義に基づ統一党は従来ドイツが採用していた[[連邦制]]ではな、[[中央集権政策]]的な[[単一国家]]の建設押し進めようと志向ていSEDはことから、1952年7月の[[ドイツ民主共和国憲法|東ドイツ憲法]]改正し、によりの廃止を決定しは解体された。これによ5つあた州はそれぞれ解体され14の[[ドイツ民主共和国の地方行政区画|県 (Bezirke)]]に再編されランクフデンブ州は{{仮リンク|コトブス県|de|Bezirk Cottbus}}、{{仮リンク|フランクフルト県|de|Bezirk Frankfurt (Oder)}}、[[ノイブランデンブルク県]]、[[ポツダム県]]、[[シュヴェリーン県]]の5県に分割された。その後1958年には共和国参議院も廃止され、1968年と1974年に行われた憲法改正を経て、1989年の[[ベルリンの壁崩壊]]まで、連邦制はドイツ民主共和国において徹底的に排除された。1990年3月に同国初[[1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙|自由選挙]]が実施されて[[ドイツ再統一]]直前まで復活を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利すると、1990年7月23日に県を統合した上で境界を調整して新たに5州 ([[新連邦州]]) が設置された。新連邦州が8月23日に[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国]]に加盟したことはなかっで[[ドイツ再統一]]が果たされた。
 
== 脚注出典 ==
{{reflistReflist}}
 
{{DEFAULTSORT: ふらんてんふるくしゆう 1945}}
77行目:
[[Category:連合軍軍政期 (ドイツ)]]
[[Category:ドイツ民主共和国の地方行政区画]]
[[Category:第二次世界大戦直後のドイツ]]
[[Category:ドイツの州]]