「ディーン・マーティン」の版間の差分

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*かつてハリウッドで[[トム・ハンクス]]主演、[[マーティン・スコセッシ]]監督で伝記映画『ディノ』の製作が浮上したことがあったが結局、この企画は実現しなかった。<ref>アメリカWikipedia:Dean Martinより</ref>
*作品リストには記されていないが、1962年『[[女房は生きていた (1962年の映画)|女房は生きていた]]』([[20世紀フォックス]]製作)で[[マリリン・モンロー]]とも共演している。この作品でディノはモンローの夫役で出演していた。結局この作品はモンローの精神不安により撮影が進まず、未完のままお蔵入りとなった。20世紀フォックスの倉庫には現在でもディーンとモンローの幻の共演シーンの撮影期間32日:約7分のシーンのみ)の一部が残されている。全37分 デラックスカラー&シネマスコープ
*同年にハワード・ホークス監督、ジョン・ウェインと再コンビによる【ユーコン・トレイル】が企画されるが『赤い河』やアンソニー・マン監督&ジェームズ・スチュアート主演『遠い国』と重なる理由で中止になった。
*1968年の映画『サイレンサー破壊部隊』でディーン・マーティンは相手役の[[シャロン・テート]]と共に、当時無名だった[[ブルース・リー]](この作品でアクション指導を担当)から[[カンフー]]の武術指導を受けている。この作品には、これまた当時無名だったアクション俳優[[チャック・ノリス]]が敵の部下役で出演していて彼との格闘シーンもある。ディノの人気シリーズだったこの作品のエンドタイトルには『Coming up next the ravagers』(次回、掠奪部隊に続く)と表示され第5作目の予定が立てられていたが、この作品の公開直後シャロン・テートが[[チャールズ・マンソン]]事件に巻き込まれ亡くなったために、このシリーズは打切りとなった。
*[[ローリングストーンズ]]初期のUSツアーにて、ディーンがホストを務めるTVショウに出演し、ディーンに酷評された。
*「[[いとしのオールディーズ]]」([[NHKラジオ第1]]毎週金曜日20:05〜)のテーマとして、ディーンの「誰かが誰かを愛している」が使用されている。
*テレビ[[西部劇]]の代表「[[ローハイド]]」には1964年にバウンティハンター役でゲスト出演を果たしている。[[チャールズ・ブロンソン]]や[[リー・ヴァン・クリーフ]]のように、悪役時代のゲスト出演は珍しくないが、ディーンのように既に大スターになってから、しかも人気も活躍度も充分高かった時期のゲストは稀である。
*[[シャーリー・マクレーン]]は「画家とモデル」で初共演だが撮影中に既にマーティン&ルイスは険悪な関係でコンビ解消は時間の問題だったが当時の2人は浪費家で収入を殆ど使い果たしており同時に財務省が其々に65万ドルの追徴課税を言い渡したから渋々再契約にサインし「底抜け西部へ行く」を撮った、だが次の「底抜けコンビのるかそるか」で遂にマーティンの怒りが爆発した、脚本にまで介入していたルイスが自分をギャングの手下に配役しマーティンはルイスを追う警官役に決めたから結局はマーティンをなだめる為に脚本を書き変えマーティンがギャングの手下で詐欺師を演じ大陸横断自動車旅にルイスが強引に同行する肉屋の店員で落ち着いた。 “警官の制服は絶対に着たくない”
*だが「キャノンボール2」ではサミー・デイヴィスJr.と一緒に警官の制服を着用し役者としてのケジメをつけている。
*全米新聞はクリスマスに他界したディーンが第一面を飾ったが偶然にもジェリー・ルイスの尊敬するチャールズ・チャップリン(1977年)と同じである。
*同じくマクレーンによると手が長く掌はカードを隠せるほど大きくポーカーの腕前は完全にプロだった。
*フランク・シナトラが亡くなる前日に自宅で観ていたのがディーンの主演作だった。
*ラスベガス国際空港壁画の中央はフランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.と一緒に描かれている。
*ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターの手形足型(正確には靴型)は偶然にも西部劇「バンドレロ!」で兄を演じたジミー・スチュアートの上部に位置されている。
 
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