「アナスタシア・ニコラエヴナ」の版間の差分

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皇帝一家が埋葬された場所が長年の間、知られていなかったという事実によって後押しされ、殺害後に彼女の生存の伝説が有名となった。[[1991年]]にエカテリンブルク近郊で両親と3人の大公女の遺骨が発掘され、さらには[[2007年]]に弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ]]と歳の近い姉の[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]もしくはアナスタシア、どちらか1人の大公女の遺骨も発見された結果、皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。数多く出現した偽アナスタシアの中でも最も知られている[[アンナ・アンダーソン]]は亡くなってから10年後の[[1994年]]に実施された[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]でアナスタシアの母方の叔母の孫にあたる[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ王配]]との遺伝的な繋がりが認められなかった。
 
== 人物生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Anastasia1904.jpg|thumb|150px|left|1904年]]
[[File:Grand_Duchess_Anastasia_standing_on_chairAnastasia1904.jpg|thumb|150px|left|19061904撮影、[[ココシニク]]を着て]]
[[File:Watercolor by Anastasia Nikolaevna of Russia.gif|thumb|150px|right|4歳の時にアナスタシアが描いた絵]][[File:Anastasiaknitting.jpg|thumb|200px|right|1908年頃。母親の部屋で編み物をするアナスタシア]]
[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第4皇女として、[[1901年]][[6月18日]]に誕生した。
 
18世紀の女帝[[エカチェリーナ2世]]の息子、[[パーヴェル1世]]は母帝を嫌って女子の継承を禁ずる{{仮リンク|帝位継承法 (ロシア帝国)|en|Pauline Laws|ru|Акт о престолонаследии (1797)|label=帝位継承法}}を定めた<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.131</ref>。そのために[[ロマノフ家]]の親戚は[[ツェサレーヴィチ]]となる息子の誕生を望んでいた。アナスタシア出生のニュースを聞いたニコライ2世の母親の[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア皇太后]]は「アリックスがまたもや女の子を出産した! 」、ニコライ2世の上の妹の[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]は「何という失望! 4人目も女の子とは! 」と述べ、両者ともに失望感を露にしている<ref>{{cite web|url=http://tsarevich.spb.ru/tses-ozhidanie.php|title=В ожидании престолонаследника|publisher=Цесаревич Алексей|accessdate=2014年8月2日|language=ロシア語|archiveurl=http://www.webcitation.org/612t3jFoK|archivedate=2011年8月19日}}</ref>。ニコライ2世も失望を隠し切れない自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けなければならないほどであった<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] pp.131-132</ref>。アナスタシアが出生した時、姉のオリガは[[腸チフス]]に苦しんでいた<ref name="Eagar15">{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/XV.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 15 THE LITTLE PRISON OPENER|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。実はアナスタシアが生まれる直前に[[フランス]]の[[神秘主義|神秘主義者]]、{{仮リンク|ニジエ・アンテルム・フィリップ|fr|Nizier Anthelme Philippe}}は「霊験あらたかな薬」を服用すれば必ず男子を産むことが出来ると明言し、アレクサンドラは彼の指示に忠実に従ったが、女子のアナスタシアが生まれたために予言は達成されなかった。フィリップは自分が仕えたのは既に懐妊した後だったと釈明し、次こそは必ず予言を的中させてみせると言い切り、引き続き宮中にとどまることが許された<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.43-44</ref>。
 
4姉妹の[[身位]]の呼称である[[ロシア大公女・大公妃一覧|大公女]]は元の[[ロシア語]]では「Великая Княжна(ヴェリーカヤ・クニャージナ)」と呼ばれ、[[英語]]では最も一般的に「Imperial Highness」、最も正確には「'''Grand Princess'''」と訳された。「Imperial Highness」はただの[[殿下]]に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他の[[ヨーロッパ]]の[[王女]]よりも序列が高いことを意味していた<ref>[[#Zeepvat(2004年)|Zeepvat(2004年)]] p.14</ref>。
 
彼女アナスタシアの名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」であり、ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬に[[モスクワ]]と[[サンクトペテルブルク]]で発生した[[暴動]]に参加したために投獄されていた学生達に対する[[恩赦]]を実施した<ref name="Eagar15" />。名前のもう一つの意味は「復活」であり、彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった<ref>{{Cite web|author=James Donahue|url=http://perdurabo10.tripod.com/warehousef/id88.html|title=The Strange Anastasia Mystery|publisher=The Mind of James Donahue|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。
 
=== 少女時代 ===
[[File:Anastasiaknitting.jpg|thumb|200px|right|1908年頃。母親の部屋で編み物をするアナスタシア]]
[[File:Letter by Anastasia Nikolaevna of Russia.jpg|thumb|150px|right|1910年にアナスタシアがいとこの[[ルイス・マウントバッテン]]に宛てて英語で書いた手紙]]
[[File:Anastasia.jpg|thumb|200px|right|1910年]]
[[File:OTMAA 1910 formal.jpg|thumb|300px|right|1910年頃。左から[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ]]、アナスタシア、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ]]、[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]、[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ]]]]
[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の4人姉妹はいつも仲良しで、末娘アナスタシアは特に一番年の近い姉の[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]と仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。2人の姉の[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ]]と[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ]]も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが「大きなペア」と呼ばれていたのに対し、下の2人は「小さなペア」と呼ばれていた<ref name="Tsar89">[[#Kurth(1995年)|Kurth(1995年)]] pp.88-89</ref>。4人は'''[[OTMA]]'''という合同のサインを結束の象徴として使用していた<ref name="Tsar89" />。また、アナスタシアは弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ]]とも[[第六感]]を使うかのごとく、話さずとも弟の気持ちを理解出来るぐらい非常に仲が良かった。彼のビュッフェテーブルから食べ物を奪ったりするなど、いつもふざけた態度で接して弟を楽しませていた<ref>{{Cite web|url=http://www.alexanderpalace.org/palace/gds.html|title=The Grand Duchesses — OTMA|publisher= Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年1月24日}}</ref>。
 
4姉妹の[[身位]]の呼称である[[ロシア大公女・大公妃一覧|大公女]]は元の[[ロシア語]]では「Великая Княжна(ヴェリーカヤ・クニャージナ)」と呼ばれ、[[英語]]では最も一般的に「Imperial Highness」、最も正確には「'''Grand Princess'''」と訳された。「Imperial Highness」はただの[[殿下]]に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他の[[ヨーロッパ]]の[[王女]]よりも序列が高いことを意味していた<ref>[[#Zeepvat(2004年)|Zeepvat(2004年)]] p.14</ref>。
 
4姉妹は[[刺繍]]や[[編み物]]を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた<ref>[[#Zeepvat(2004年)|Zeepvat(2004年)]] p.153</ref>。また、祖父である[[アレクサンドル3世]]の代からの質素な生活スタイルの影響を受けて厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで固い簡易型ベッドで眠り、朝に冷水浴をした<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.114</ref>。[[メイド]]を手伝って一緒にベッド作りを行い、用事を頼む時も命令口調では無く、「すみませんが、もし差し支え無ければ、母が用事があるので来てほしいと申しております」というような言い方をしていた<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] pp.235-236</ref>。大きくなると、簡易ベッドは変わらぬものの、部屋の壁には[[イコン]]や絵画や写真が飾られ、豪華な化粧台や、白や緑の刺繍を置いたクッションなどが入り、大きな部屋をカーテンで仕切って浴室兼化粧室として4人共同で使用した<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.117</ref>。10代になると、冷水浴をやめて夜に[[フランソワ・コティ]]の[[香水]]の入った温水のバスを使用するようになったが、アナスタシアは「ヴァイオレット」を常に愛用していた<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] pp.117-118</ref>。4姉妹は簡易ベッドを流刑地まで持って行き、最後の夜もこのベッドの上で過ごすことになった<ref>[[#ラジンスキー上(1993年)|ラジンスキー上(1993年)]] p.191</ref>。
 
[[エカチェリーナ2世]]の息子、[[パーヴェル1世]]は母帝を嫌って女子の継承を禁ずる{{仮リンク|帝位継承法 (ロシア帝国)|en|Pauline Laws|ru|Акт о престолонаследии (1797)|label=帝位継承法}}を定めた<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.131</ref>。そのために[[ロマノフ家]]の親戚は[[ツェサレーヴィチ]]となる息子の誕生を望んでいた。アナスタシア出生のニュースを聞いたニコライ2世の母親の[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア皇太后]]は「アリックスがまたもや女の子を出産した! 」、ニコライ2世の上の妹の[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]は「何という失望! 4人目も女の子とは! 」と述べ、両者ともに失望感を露にしている<ref>{{cite web|url=http://tsarevich.spb.ru/tses-ozhidanie.php|title=В ожидании престолонаследника|publisher=Цесаревич Алексей|accessdate=2014年8月2日|language=ロシア語|archiveurl=http://www.webcitation.org/612t3jFoK|archivedate=2011年8月19日}}</ref>。ニコライ2世も失望を隠し切れない自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けなければならないほどであった<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] pp.131-132</ref>。アナスタシアが出生した時、姉のオリガは[[腸チフス]]に苦しんでいた<ref name="Eagar15">{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/XV.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 15 THE LITTLE PRISON OPENER|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。実はアナスタシアが生まれる直前に[[フランス]]の[[神秘主義|神秘主義者]]、{{仮リンク|ニジエ・アンテルム・フィリップ|fr|Nizier Anthelme Philippe}}は「霊験あらたかな薬」を服用すれば必ず男子を産むことが出来ると明言し、アレクサンドラは彼の指示に忠実に従ったが、女子のアナスタシアが生まれたために予言は達成されなかった。フィリップは自分が仕えたのは既に懐妊した後だったと釈明し、次こそは必ず予言を的中させてみせると言い切り、引き続き宮中にとどまることが許された<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.43-44</ref>。
 
彼女の名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」であり、ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬に[[モスクワ]]と[[サンクトペテルブルク]]で発生した[[暴動]]に参加したために投獄されていた学生達に対する[[恩赦]]を実施した<ref name="Eagar15" />。名前のもう一つの意味は「復活」であり、彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった<ref>{{Cite web|author=James Donahue|url=http://perdurabo10.tripod.com/warehousef/id88.html|title=The Strange Anastasia Mystery|publisher=The Mind of James Donahue|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。
 
[[1905年]]からニコライ2世は妻子を[[ツァールスコエ・セロー]]にある離宮[[アレクサンドロフスキー宮殿]]に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.50</ref>。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.91</ref>。
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末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、[[マスメディア]]や[[貴族]]の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、ひんしゅくを買う他はほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、[[ロシア革命]]を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.56</ref>。
 
ただ、多くの証人達がアナスタシアは「お転婆娘だった」と語っている。家族からは「反抗児」とか「道化者」と呼ばれていた<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.234</ref>。アナスタシアの遊び友達でエカテリンブルクでニコライ2世一家と一緒に殺害された皇室[[主治医]][[エフゲニー・ボトキン]]の息子、[[グレブ・ボトキン]]は彼女の外見の特徴について「少し赤みがかった金髪で、背は低く、顔の造作は不揃いで、鼻がやや長過ぎ、口幅がかなり大きかったが、顎の形は整っており、父親譲りの実に美しい明るい青い瞳をしていた」と記憶しており、また、3冊の本と何百もの手紙の中で「最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移す」「独裁的で、他人が自分のことをどう思っているかについては無関心だった」という印象を述べ、「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と評している<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] pp.56-57</ref><ref name="マーシー236">[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.236</ref>。

グレブ・ボトキンの姉、[[タチアナ・ボトキナ]]は「きらきら光る青い瞳」を持った「活発だがちょっと粗暴で、いたずら好きな少女」であり、「眼の片隅から相手の顔を横目で盗み見るようにして笑っていた」と回想している<ref name="マーシー236" />。

[[フランス語]]の[[家庭教師]]を務めた{{仮リンク|ピエール・ジリヤール|en|Pierre Gilliard}}は「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。[[喜劇]]の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている<ref name="ラヴェル59">[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.59</ref>。

[[女官]]([[侍女]])の{{仮リンク|リリー・デーン|en|Lili Dehn}}も物真似が非常に上手く、喜劇女優としての才能があったと評している<ref>{{Cite web|author=Lili Dehn|url=http://www.alexanderpalace.org/realtsaritsa/1chap4.html|title=Part One - Old Russia CHAPTER Ⅳ|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。
 
アナスタシアはよく木登りをしたが、降りるように言われても、父親から叱られるまで降りようとはしなかった<ref name="マーシー235">[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.235</ref>。頬が真っ赤に染まるほど強く叩かれても泣かない子供であったが、[[ポーランド]]にある皇室私有地で家族で[[雪合戦]]をして遊んでいる時に、雪玉の中に石を入れて投げてそれが姉タチアナの顔面に命中し、彼女を押し倒した時には驚きのあまり声をあげて泣き出してしまい、何日もそのショックを引きずった<ref name="マーシー235" /><ref>{{Cite web|author=Anna Vyrubova|url=http://www.alexanderpalace.org/russiancourt2006/vi.html|title=Memories of the Russian Court The Imperial Children|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。
 
遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを、彼女の遠縁のいとこに当たる[[ニーナ・ゲオルギエヴナ]]は「邪悪だと言って良いぐらいに意地悪だった」と語っており、ニーナの方が遅く生まれたのにアナスタシアより背が高いことに怒っていたと回想している<ref>[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.50</ref>。アナスタシアを可愛がった叔母のオリガ・アレクサンドロヴナも「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している<ref name="ラヴェル59" />。
 
アナスタシアはよく木登りをしたが、降りるように言われても、父親から叱られるまで降りようとはしなかった<ref name="マーシー235">[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.235</ref>。頬が真っ赤に染まるほど強く叩かれても泣かない子供であったが、[[ポーランド]]にある皇室私有地で家族で[[雪合戦]]をして遊んでいる時に、雪玉の中に石を入れて投げてそれが姉タチアナの顔面に命中し、彼女を押し倒した時には驚きのあまり声をあげて泣き出してしまい、何日もそのショックを引きずった<ref name="マーシー235" /><ref>{{Cite web|author=Anna Vyrubova|url=http://www.alexanderpalace.org/russiancourt2006/vi.html|title=Memories of the Russian Court The Imperial Children|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たる[[ニーナ・ゲオルギエヴナ]]は「邪悪だと言って良いぐらいに意地悪だった」と語っており、ニーナの方が遅く生まれたのにアナスタシアより背が高いことに怒っていたと回想している<ref>[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.50</ref>。アナスタシアを可愛がった叔母のオリガ・アレクサンドロヴナも「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している<ref name="ラヴェル59" />。サンクトペテルブルクの[[歌劇場|オペラハウス]]に招待された[[アメリカ合衆国]]のベストセラー[[作家]]で[[外交官]]の妻でもある{{仮リンク|ハリー・アーミニー・リーブズ|en|Hallie Erminie Rives}}は「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入った[[チョコレート]]を食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.62</ref>。しかし、4人娘の養育を担当した{{仮リンク|マーガレッタ・イーガー|en|Margaretta Eagar}}にはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした<ref>[[#Rappaport(2014年)|Rappaport(2014年)]] p.94</ref>。また、彼女は「年少のアナスタシアは今までに見てきた子供達の中で最も愛敬があった」とも述べている<ref>{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/XXII.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 22 THE OUTBREAK OF WAR|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。
p.106</ref>。
 
アナスタシアはよく木登りをしたが、降りるように言われても、父親から叱られるまで降りようとはしなかった<ref name="マーシー235">[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.235</ref>。頬が真っ赤に染まるほど強く叩かれても泣かない子供であったが、[[ポーランド]]にある皇室私有地で家族で[[雪合戦]]をして遊んでいる時に、雪玉の中に石を入れて投げてそれが姉タチアナの顔面に命中し、彼女を押し倒した時には驚きのあまり声をあげて泣き出してしまい、何日もそのショックを引きずった<ref name="マーシー235" /><ref>{{Cite web|author=Anna Vyrubova|url=http://www.alexanderpalace.org/russiancourt2006/vi.html|title=Memories of the Russian Court The Imperial Children|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たる[[ニーナ・ゲオルギエヴナ]]は「邪悪だと言って良いぐらいに意地悪だった」と語っており、ニーナの方が遅く生まれたのにアナスタシアより背が高いことに怒っていたと回想している<ref>[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.50</ref>。アナスタシアを可愛がった叔母のオリガ・アレクサンドロヴナも「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している<ref name="ラヴェル59" />。サンクトペテルブルクの[[歌劇場|オペラハウス]]に招待された[[アメリカ合衆国]]のベストセラー[[作家]]で[[外交官]]の妻でもある{{仮リンク|ハリー・アーミニー・リーブズ|en|Hallie Erminie Rives}}は「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入った[[チョコレート]]を食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.62</ref>。しかし、4人娘の養育を担当した{{仮リンク|マーガレッタ・イーガー|en|Margaretta Eagar}}にはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした<ref>[[#Rappaport(2014年)|Rappaport(2014年)]] p.94</ref>。また、彼女は「年少のアナスタシアは今までに見てきた子供達の中で最も愛敬があった」とも述べている<ref>{{Cite web|author=Margaretta Eagar|url=http://www.alexanderpalace.org/eagar/XXII.html|title=Six Years at the Russian Court CHAPTER 22 THE OUTBREAK OF WAR|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。
[[File:Grand Duchess Anastasia Nikolaevna self photographic portrait.jpg|thumb|175px|right|1914年10月撮影の「[[自分撮り|自撮り]]」写真]]
エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う[[外反母趾]]に悩まされていた<ref>[[#Kurth(1995年)|Kurth(1995年)]] p.106</ref>。また一方、背中の筋肉も弱く、週2回のマッサージ治療が施されたが、それを嫌がってよくベッドの下や戸棚の中に隠れていた<ref>[[#Mironenko, Maylunas(1997年)|Mironenko, Maylunas(1997年)]] p.327</ref>。エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う[[外反母趾]]に悩まされていた<ref>[[#Kurth(1995年)|Kurth(1995年)]] </ref>
 
趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さなかったと言われている<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.58</ref>。アナスタシアは[[1914年]]10月28日に愛機を椅子に固定し、鏡に映った自分の姿を撮影する形で「[[自分撮り|自撮り]]」した写真を「鏡を見ながら自分の写真を撮ってみたの。手が震えてとっても難しかったわ」と書いた手紙を同封して友人宛てに送った。『[[デイリー・メール]]』の[[リポーター]]は「おそらく彼女こそ自撮りを初めて行った[[ティーンエイジャー]]だろう」と推測している<ref>{{Cite web|url=http://www.dailymail.co.uk/femail/article-2514069/Russian-Grand-Duchess-Anastasia-seen-capturing-reflection-1913-Russia.html|title=Now that's a historical selfie! A teen Grand Duchess Anastasia is seen capturing her own reflection in 1913 Russia|publisher=[[デイリー・メール|Dailymail.co.uk]]|language=英語|date=2013年11月26日|accessdate=2015年10月26日}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201312_post_37.html|title=「自撮り写真」の発祥はロマノフ王朝だった!?|publisher=[[Excite|Excite.co.jp]]|date=2013年12月3日|accessdate=2015年10月26日}}</ref>。[[日本]]でも彼女が撮った写真を集めた写真集「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」(ISBN 978-4897844725)が出版された。
 
=== ラスプーチンとの繋がり ===
[[File:Григорий Распутин (1914-1916)b.jpg|thumb|200px180px|right|[[グリゴリー・ラスプーチン]]]]
[[File:MariaAnastasiahospital.jpg|thumb|200px180px|right|1915年頃。マリア(左)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたアナスタシア]]
[[File:Inside Anastasia smoking.jpg|thumb|250px200px|right|1916年。父の[[ニコライ2世]]に勧められて喫煙するアナスタシア]]
[[File:Anastasia Nikolaevna, Tatiana Nikolaevna and Empress Alexandra.jpg|thumb|250px|right|1916年。病院の看護師を務める[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]](左)、タチアナ(中)と。タチアナの後ろに立っているのはマリアの恋愛相手の将校ニコライ・デメンコフ]]
ピエール・ジリヤールは4人の大公女にとってアレクサンドラは絶対的な存在であり、母親が病気の時には4人娘が一歩も外出が出来なくなってしまうほどであったと述べている<ref>{{Cite web|author=Pierre Gilliard|url=http://www.alexanderpalace.org/2006pierre/chapter_VI.html|title=Life at Tsarskoe Selo - Pierre Gilliard - Thirteen Years at the Russian Court THE WINTER OF 1913-14|publisher=Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年8月2日}}</ref>。息子アレクセイの病気を治したとしてアレクサンドラから信頼を勝ち得た[[グリゴリー・ラスプーチン]]と皇帝の子供達の親密な友情はやり取りされた手紙の内容からも明らかになっている。アナスタシアも「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたに会いたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。いつもママにあなたがいつ来るのか聞きます。・・・とても優しくしてくれる、いつも親愛なるあなたのことを考えています」と書いた手紙をラスプーチンに送った<ref>{{Cite web|url=http://www.curiouschapbooks.com/Catalog_of_Curious_Chapbooks/Victoria_s_Dark_Secrets/VDS-6/body_vds-6.html|title=Victoria's Dark Secrets Chapter6 ANASTASIA|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。
 
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2年後の皇帝一家殺害を指揮した[[ヤコフ・ユロフスキー]]は大公女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の[[祈り]]の言葉を添えた魔除けの[[ロケットペンダント]]を首にかけていたと証言している<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.90</ref>。
 
=== 第一次世界大戦中の奉仕活動 ===
[[File:Anastasia Nikolaevna, Tatiana Nikolaevna and Empress Alexandra.jpg|thumb|250px200px|right|1916年。病院の看護師を務める[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]](左)、タチアナ(中)と。タチアナの後ろに立っているのはマリアの恋愛相手の将校ニコライ・デメンコフ]]
[[第一次世界大戦]]中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。2人は彼女達の母親や2人の姉のように[[赤十字社|赤十字]]の[[看護師]]になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒に[[チェッカー]]や[[ビリヤード]]で遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「[[リス]]のような笑顔」を持ち、軽快な足取りで早歩きしていたことを回想している<ref>[[#Kurth(1983年)|Kurth(1983年)]] p.187</ref>。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.71</ref>。
[[第一次世界大戦]]中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。2人は彼女達の母親や2人の姉のように[[赤十字社|赤十字]]の[[看護師]]になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒に[[チェッカー]]や[[ビリヤード]]で遊び、彼らの士気を高めようと努力した。
 
[[第一次世界大戦]]中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。2人は彼女達の母親や2人の姉のように[[赤十字社|赤十字]]の[[看護師]]になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒に[[チェッカー]]や[[ビリヤード]]で遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「[[リス]]のような笑顔」を持ち、軽快な足取りで早歩きしていたことを回想している<ref>[[#Kurth(1983年)|Kurth(1983年)]] p.187</ref>。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.71</ref>。
 
=== ロシア革命と監禁 ===
[[File:Anamashtat1917.jpg|thumb|250px200px|right|1917年春に軟禁下の[[ツァールスコエ・セロー]]にて。マリア(手前)、タチアナ(奥)と]]
[[File:RomanovsatTobolsk.jpg|thumb|250px|right|1917年冬に[[トボリスク]]にて。左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ]]
[[File:Anastasia Nikolaevna in captivity at Tobolsk.jpg|thumb|250px|right|1918年春にトボリスクにて]]
[[1917年]]2月23日(グレゴリオ暦で[[3月8日]])に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]において[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発した。この前日にニコライ2世が最高司令官の職務を果たすべく[[マヒリョウ|モギリョフ]]にある[[司令部|軍総司令部]]([[スタフカ]])に向かうために首都を離れたばかりだった<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] pp.167-168</ref>。新たに成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]代表から[[退位]]を迫られたニコライ2世は3月2日(グレゴリオ暦で[[3月15日]])に「つい先程まで、私は帝位を息子のアレクセイ皇太子に譲るつもりでいた。しかし、私は病弱な自分の息子と別れることは出来ないと悟った」と述べ、息子では無く弟のミハイル大公に皇位を譲る決断をした<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] pp.181-182</ref>。ところが、ミハイル大公は臨時政府左派の[[アレクサンドル・ケレンスキー]]から「帝位に就けばロシアを救うどころか滅ぼすことになる。[[専制政治|専制]]に対する国民の不満は高まっている。そうなれば、あなたの生命は保証出来ない」と言われるなど脅されたために即位を辞退せざるを得なくなり、他の人物に譲位もしなかったために[[ロマノフ朝]]は滅亡した<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.185</ref>。
 
まず1917年3月21日(以降グレゴリオ暦)にアレクサンドラとその子供達がツァールスコエ・セローの宮殿で逮捕され、翌22日はニコライ2世も宮殿に戻り、一家は[[軟禁|自宅軟禁]]下に置かれた<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] pp.355-358</ref>。次いで列車と[[蒸気船|汽船]]''『ルーシ』''号で[[シベリア]]の[[トボリスク]]まで移送され、1917年8月26日からこの地の旧知事公舎で生活を開始した<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] pp.382-383</ref>。
 
=== トボリスクでの軟禁 ===
[[File:RomanovsatTobolsk.jpg|thumb|250px200px|right|1917年冬に[[トボリスク]]にて。左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ]]
[[File:Anastasia Nikolaevna in captivity at Tobolsk.jpg|thumb|250px200px|right|1918年春にトボリスクにて]]
4人の大公女達は二月革命勃発直後に[[麻疹|はしか]]に罹り、その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった<ref name="植田198">[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.198</ref>。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニアに頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラは親友のアンナ・ヴィルボヴァらには熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた娘達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている<ref name="植田198" />。アレクサンドラがトボリスク滞在中にヴィルボヴァに書き送った手紙の一つには「アナスタシアが今、マリアもかつてそうでしたが、とても太ってがっかりしています。腰のところに肉が付いて円くなっていて足も短いのです。アナスタシアがもっと大人になればと願っています。オリガとタチアナは2人ともほっそりしています」と末娘の体型に対する不満が述べられている<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.390</ref>。
 
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}}
 
=== イパチェフ館での生活 ===
[[File:AnastasiaRus.jpg|thumb|250px|right|1918年5月。トボリスクから[[エカテリンブルク]]へ向かう途中に乗船した''『ルーシ』''号にて。既知の最後の写真]]
病状が悪化していたアレクセイが旅行に堪えられるまで回復したため、1918年5月23日にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイは先にエカテリンブルクの[[イパチェフ館]]に移送された家族の他のメンバーと合流した<ref>[[#マッシー(1999年)|マッシー(1999年)]] p.325</ref>。アナスタシアはこの館で一番歳の近いマリア同様に積極的に警護兵と交流を持った。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンドル・ストレコチンはアナスタシアの性格について「人なつっこくて非常にお茶目だった」と回想している。別の警護兵は「小悪魔だ! 彼女はいたずら好きで、滅多に疲れないように見えた。生き生きとして、[[サーカス]]をしているかのように、犬と一緒に喜劇の[[パントマイム]]を行うのが好きだった」と述べている<ref>[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.250</ref>。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の大公女を「[[テロリズム|テロリスト]]」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を漏らした<ref>[[#King, Wilson(2003年)|King, Wilson(2003年)]] p.251</ref>。
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7月16日、アナスタシアの人生最後の一日。4人の大公女は午後4時に普段通りに父親と一緒に庭を散歩し、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。慎重に殺害の準備は進められ、一家は何も知らぬまま午後10時過ぎに眠りに付いた<ref>[[#マッシー(1996年)|マッシー(1996年)]] p.420</ref>。この日の夜に反[[ボリシェヴィキ]]勢力の[[白軍]]がいよいよエカテリンブルク近くまで迫ったために早々と夜間外出禁止令が出された<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.45</ref>。
 
=== 殺害 ===
[[File:Ipatyev house basement.jpg|thumb|250px|right|皇帝一家殺害現場となった[[イパチェフ館]]地下2階]]
{{main|ロマノフ家の処刑}}