「五木ひろし」の版間の差分
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[[1970年]]、故郷福井の放送局[[福井放送]]のプロデューサーの勧め<ref>1971年6月よこはまたそがれ改名4度五木ひろし起死回生の「4・4・7」、[[スポニチ]]2011年6月20日<!--福井新聞で補足します--></ref>で、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]制作のオーディション番組『[[全日本歌謡選手権]]』に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。当時銀座のクラブでの弾き語りが、サラリーマンの初任給3万円の時代に月収50万円もあり<ref name="運の履歴書" />、もし落ちたらプロ歌手として失格の烙印を押され、弾き語りの仕事にも響く、この生活を捨ててまで危険な挑戦をすべきかで悩んだ<ref name="運の履歴書" />。第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と覚悟のほどを語っているが<ref name="diskgarage"/>、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。同番組2週目の審査員だった作詞家の[[山口洋子]]が[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間音工]]の[[徳間康快]]を紹介しくれ<ref name="運の履歴書" />、五木によると実際は7週目くらいにはデビュー曲が出来上がっていたという<ref>[https://hochi.news/articles/20191216-OHT1T50135.html 【あの時・日本レコード大賞<6>】五木ひろし、勝負曲「夜空」に急きょ変更 - スポーツ報知 2019年12月21日]</ref><ref group="注">[[杉作J太郎]]によると5週目くらいには「五木があまりにも凄い」と審査員も納得し、まだ優勝もしてないのに審査員全員で曲を作り始め10週経った時には曲ができていたという。</ref><ref name="diskgarage"/>。この関係で[[キックボクシング]]・ジムであった[[野口プロモーション]](社長:[[野口修]])と契約を結び、同プロモーションの芸能人第1号となる<ref name="運の履歴書" />。山口と作曲家の[[平尾昌晃]]に師事。プロデューサーには山口が就任した。
[[1972年]]、第3弾シングル「かもめ町みなと町」は前作同様にマドロス演歌ながらも、敢えて[[筒美京平]]を作曲に迎え、最高位11位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。第4弾シングルとして[[藤本卓也]]を作曲に迎えた「待っている女」は、ポップス演歌とプロモーションされ、最高位6位、登場週数22週、25万枚を超える売上げを記録。この曲で第3回日本歌謡大賞放送音楽賞を2年連続2回目の受賞。ポップス演歌第2弾となる「夜汽車の女」は、前作の続編的性格を持ち、スマッシュ・ヒットに終わる。この曲で[[第14回日本レコード大賞]]歌唱賞を2年連続2回目の受賞。[[藤田まさと]]を作詞に迎えた股旅演歌「旅鴉」は、テレビ時代劇ドラマ『[[長谷川伸シリーズ]]』[[主題歌]]として発売になったもので、テレビ歌謡番組などでは積極的に披露してはいないにも拘らず、最高位19位、登場週数32週、15万枚を超える売上げを記録。2作続いたポップス演歌から脱却し、年の暮れに発売になった「あなたの灯」は五木の持ち味が最大限に活かされたリズム演歌であり、翌1973年にかけて最高位5位、登場週数26週、30万枚を超える売上げを記録。[[ファン]]の裾野を拡げ、その後の方向性を決定づけた作品となる。
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