「ミハイル・ヴォロンツォフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m bot: 解消済み仮リンクエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを内部リンクに置き換えます
7行目:
ベストゥージェフが失脚し、エリザヴェータ女帝によって、ヴォロンツォフは後任の[[ロシアの外相|外相]]兼大宰相に就任する。英語版によると、ヴォロンツォフは善意に充ち、公正な人物であったが、政治家としては非常に臆病で決断力に欠けていたとされる。一方で、[[アンリ・トロワイヤ]]、及び[[池田理代子]]の『女帝エカテリーナ』では、ベストゥージェフやエカテリーナ2世を向こうに回すヴォロンツォフ一族の領袖、政略家として描写されている。ともあれ、エリザヴェータ女帝の支持を得、[[プロイセン王国|プロイセン]]に対しては、公然と敵意を剥き出しにし、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[フランス王国|フランス]]と良好な関係を維持した。
 
しかし、[[1762年]][[1月5日]]、エリザヴェータ女帝が崩御し、ピョートル3世が即位すると、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]に心酔する新帝に従い、ロシアはプロイセン包囲網から脱退する。ヴォロンツォフは、姪の{{仮リンク|[[エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ|ru|Воронцова, Елизавета Романовна|en|Elizaveta Vorontsova}}]](通称リーザ)がピョートル3世の寵姫であることを背景に、さらに[[ヴォロンツォフ家|ヴォロンツォフ一門]]の権勢を強めた。しかし、頂点に達したかに見えたヴォロンツォフの権勢も、皇后エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃がエリザヴェータ女帝のひそみにならい、[[オルロフ家|オルロフ四兄弟]]を中心とする不平貴族や軍隊を動かし、{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}を成功させたことによって瓦解した。[[1762年]][[6月28日]]に即位したエカテリーナ2世は、ピョートル3世を廃位した。ヴォロンツォフは敗北を悟り、恭順の意を明らかにした。エカテリーナ2世即位後も宰相職に留まるが、姪のリーザをめぐってもともと心象が悪かった上、所管していた外交政策が[[ニキータ・パーニン]]伯の手に事実上移り、自ら引き際を悟ったヴォロンツォフは[[1763年]]に公職から退いた。
 
== 関連項目 ==