「ストリートチルドレン」の版間の差分

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匿芳 (会話 | 投稿記録)
ルーマニア革命前後の記述を修正
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[[欧州議会]]は、[[ルーマニア]]の首都[[ブカレスト]]には、おおよそ1000人くらいのストリートチルドレンがいると見積もっているが、数千から1万人程度という向きもある。
 
これらの子供たちは旧共産主義時代の[[独裁者]]である[[ニコラエ・チャウシェスク]]の政策の中で生まれてきたものである。チャウシェスクは「国力とはすなわち人口なり」とし、子供をたくさん産んだ母親に奨金を出し、人口を増加させる子育て優遇政策を実行した<ref>佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社学〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、117頁。</ref>。また、チャウシェスクは国民人口を増やす目的で[[避妊]]及び[[人工妊娠中絶]]を禁じ、そた。

これら後継者も[[社会福祉]]主義政策は、社会保障費の深刻な増大を招き政府財政を圧迫することになる。1977〜1981 年にルーマニアの対外債務が大幅に増加すると、返済を求めるIMFや世界銀行にりも経る圧力が強まったことから、国債を完全返的な効果するための政策に切り替えた。ルーマニア政府は国債重要視 1989 年に完済した。そもの国民生活は困窮、同年、[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]により共産党政権崩壊するとともに、奨学金が出せなくなるは停止<ref>佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社学〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、118頁。</ref>した。こうして産み出された子供たちは、親から充分に食べさせてもらえず、家を飛び出す、あるいは捨てられて街頭で生活していくこととなった。
 
なおルーマニアは、ヨーロッパ諸国の中で子供たちの[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]感染率の最も高い国になっている。これは1986-1991年の混乱期に、[[輸血]]や[[栄養剤]]の注射をするのに[[注射器]]の針も欠乏していたことなどが原因ともいわれる。これらでは、[[孤児院]]などの児童保護施設で、貧しい食糧事情から栄養失調により体調を崩す子供も多く、それを即物的に治療する上で、栄養剤注射が常態化していたという報告も寄せられている。この状況下で注射針の不足から、これら施設に収容された児童内にエイズが蔓延したと見られている。