「牛島満」の版間の差分

長年要出典で放置されていた記述の削除、内容から見て歩兵第3連隊のエピソードを取り違えた可能性高し
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(長年要出典で放置されていた記述の削除、内容から見て歩兵第3連隊のエピソードを取り違えた可能性高し)
1936年2月26日に起こった二・二六事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかったが、反乱は間もなく鎮圧され、翌3月、牛島は事件の首謀者の一人、[[栗原安秀]]中尉らの所属部隊である[[歩兵第1連隊]]長に任ぜられた。すっかり混乱した部隊をまとめられるのは牛島が適任と見なされての抜擢であった{{sfn|小松茂朗『沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯』|p=22}}。5月8日からは第1連隊は二・二六事件前から内定していた北部満州に派遣され、治安維持任務に就くこととなった。
軍の関係者や兵士らは、牛島の前任の小藤恵連隊長が引責で更迭されており、懲罰の派遣と考えていたが{{sfn|将口泰浩『魂還り魂還り皇国護らん―沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯』|p=66}}、牛島は荒んだ兵士らの激励と慰問を兼ねて8か所の分屯地を大隊長らとトラックで巡回し、兵士らに「手足を見せてみろ、不潔にしていると[[凍傷]]になるぞ」と声をかけて回り、顔色が悪い兵士を見かけると「風邪をひいているのではないか?無理をするな」と軍医に診せるなど兵士にきめ細かい心遣いを見せている{{sfn|将口泰浩『魂還り魂還り皇国護らん―沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯』|p=67}}。兵士らは懲罰と思い込んでいたのと、[[匪賊]]との戦闘で死傷者が出たこともあり意気消沈していたが、牛島連隊長の心配りに絆されて兵士の士気は上がり、牛島に対する景仰と信頼も高まった{{sfn|牛島満伝刊行委員会『沖縄軍司令官牛島満伝』|p=125}}。その後、新兵多数も配属されたが、牛島に影響を受けていた古参兵らは、新兵に心配りをするようになり、[[小銃]]の手入れを手伝い、[[文盲]]の新兵の代わりに家族に手紙を書いてやり、官給品の[[ランプ]]を破損した新兵には古参兵が破損したことにして新品を支給している。このように牛島の連隊の運営方針が末端の兵士まで行き届いており、連隊の雰囲気は改善されていった{{sfn|牛島満伝刊行委員会『沖縄軍司令官牛島満伝』|p=125}}。これは、同じく反乱部隊の中枢となった[[歩兵第3連隊]]が、新連隊長の方針で「二・二六事件の汚名をそそげ」と反乱に参加した古参兵中心に徹底的にしごかれたのとは対照的であった{{sfn|将口泰浩『魂還り魂還り皇国護らん―沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯』|p=68}}。
 
一方で、歩兵第1連隊第11中隊の堀口真助二等兵によれば、事件に関わった下士官兵に対し、「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」という厳しい訓示をしたとのことで、堀口は「早い話が名誉挽回のため死んでお詫びせよという意味らしかった。兵隊に対する激励の言葉とは思われず反発を感じ、連隊長の人間性を疑った」と感じたという証言もある{{要出典|date=2017年9月}}。
 
[[File:Ushijima Mitsuru.jpg|thumb|200px|陸軍少将時代の牛島満]]
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