「フィリップ・スーポー」の版間の差分

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1916年に[[動員]]され、[[アンジェ]]の第33砲兵連隊に配属された。このとき、[[チフス]]の[[ワクチン]]の臨床試験に被験者として参加したところ、高熱と[[せん妄]]が続き、除隊となった。療養中に知り合ったシュザンヌ・ピヤール・ヴェルヌイユと翌年10月に結婚。[[音楽家]]で当時[[ダンス]]の教師をしていたシュザンヌは、装飾芸術家{{仮リンク|モーリス・ピヤール・ヴェルヌイユ|fr|Maurice Pillard Verneuil|label=}}の娘である(1920年代初めに離婚)<ref name=":1" />。
 
療養中に偶然目にした雑誌の一つが、詩人、画家、[[彫刻家]]の{{仮リンク|ピエール・アルベール=ビロ|fr|Pierre Albert-Birot|label=}}が創刊した『{{仮リンク|SIC (雑誌)|fr|SIC (revue)|label=''SIC''}}』(Sons ([[音]])、Idees ([[思想]])、Couleurs ([[色彩]]) の頭文字をつなげた誌名<ref name=":4">{{Cite journal|和書|author=川上勉|year=1997|title=アラゴンの『現代文学史草案』について|url=http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/46608.pdf|journal=立命館経済学|volume=46|page=|pages=85-106}}</ref>)1916)で、1916年7月の同誌第7号には[[ギヨーム・アポリネール|アポリネール]]の詩が掲載されていた。また、同年、小説『虐殺された詩人』が出版されたのを機に、アルベール=ビロはアポリネールに[[インタビュー]]し、同年8月・9月・10月合併号に「新しい傾向」として掲載していた<ref>{{Cite web|title=Sic No. 8-9-10|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/Sic/8_9_10/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>。スーポーはアポリネールの詩や思想に触発されて「出発」と題する詩を書き、1917年2月にこの詩をアポリネールに送った<ref name=":5">{{Cite book|title=Présence de Philippe Soupault|url=http://books.openedition.org/puc/10099|publisher=Presses universitaires de Caen|date=2017-10-31|location=Caen|isbn=978-2-84133-797-2|pages=15–24|first=Michel|last=Décaudin|editor-first=Myriam|editor-last=Boucharenc|editor2-first=Claude|editor2-last=Leroy|year=|chapter=Soupault en 1917 : Aquarium|language=fr}}</ref>。当時、軍の病院に入院していたスーポーは、[[郵便物]]を送るために軍の許可を得る必要があったので「フィリップ・ヴェルヌイユ」というシュザンヌの姓を使った偽名で送った。3月初めにアポリネールから返信があり、『''SIC''』最新号(第15号)が同封されていた。「フィリップ・ヴェルヌイユ」の詩「出発」が掲載されていたのである<ref>{{Cite web|title=Sic No. 15|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/Sic/15/pages/00cover.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>。
[[ファイル:Café de Flore - 1900.jpg|左|サムネイル|260x260ピクセル|アポリネールを中心とする文学者が集まった「カフェ・ド・フロール」(1900年頃)]]
退院したスーポーは、早速サン・ジェルマン大通り202番地のアポリネール宅を訪れた。兵役に志願して負傷したアポリネールが妻ジャクリーヌと一緒に暮らしていたアパートには、彼が『キュビスムの画家たち』で絶賛した[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[マリー・ローランサン]]や、[[アンドレ・ドラン]]、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]、[[アンリ・ルソー]]の絵が飾られ、[[アフリカ]]や[[ポリネシア]]の小彫像が置かれていた。アポリネールは、後に『カリグラム』に収められることになる詩「影」を即興で書き、帰り際には、詩集『アルコール』に「詩人フィリップ・スーポーへ、心を込めて」と[[献辞]]を添えて渡された。生まれて初めて、しかも大詩人アポリネールに「詩人」と認められたスーポーは一生詩を書き続ける決意をした<ref name=":0" />。これ以後、二人は頻繁に会ってパリを散歩するようになった。アポリネールが主宰する雑誌『[[レ・ソワレ・ドゥ・パリ]]』の編集室が置かれていた[[サン=ジェルマン=デ=プレ]]の{{仮リンク|カフェ・ド・フロール|fr|Café de Flore|label=}}では、毎週火曜の午後にアポリネールを囲む会が行われ、{{仮リンク|フランシス・カルコ|fr|Francis Carco|label=}}、[[ラウル・デュフィ]]、[[マックス・ジャコブ]]、[[ジャン・コクトー]]、[[エリック・サティ]]らが集まっていた<ref>{{Cite web|title=歴史 - 1887-1930 カフェ・ド・フロールでのシュルレアリスムの誕生|url=https://cafedeflore.fr/%e6%ad%b4%e5%8f%b2/?lang=ja|website=Café de Flore|accessdate=2020-01-10|language=ja|publisher=}}</ref>。
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この頃、[[チューリッヒ]]では1916年2月に詩人の[[フーゴ・バル|フーゴー・バル]]が[[キャバレー・ヴォルテール]]を開店し、[[トリスタン・ツァラ]]、[[ジャン・アルプ]]ら亡命作家・画家を中心としたダダイスムの活動拠点となった。1917年7月にツァラが『ダダ ''I''』誌を刊行したときには<ref>{{Cite web|title=Dada|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/dada/index.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>、アルベール=ビロが『''SIC''』誌でいち早くこの運動を取り上げ、これを知ったツァラが「黒人芸術に関する覚え書き6」と題する記事をアルベール=ビロに送り、『''SIC''』誌1917年9月・10月合併号に掲載された<ref>{{Cite web|title=Sic No. 21-22|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/Sic/21_22/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>。ツァラはルヴェルディの『南北』誌にも詩「わが心の闇の大いなる嘆き歌」を送り、これは同誌1917年6月・7月合併号に掲載された<ref name=":7" /><ref>『ツァラ詩集』浜田明訳、[[思潮社]]、1981年所収。</ref>。スーポーは早速、アドリエンヌ・モニエの書店「本の友の家」で『ダダ ''I''』誌を入手した。また、1917年9月からアラゴンもアドリエンヌ・モニエの書店に出入りするようになり、スーポーはブルトンを介してアラゴンに紹介された。これ以後、3人は同じ関心を抱き、活動を共にすることになる。3人の共通点は[[医学]]であった。ブルトンもアラゴンも医学を専攻し、スーポーは医師の息子であったからである。だが、それ以上に3人を結びつけたのは、ブルジョワ社会の[[道徳]]・[[社会秩序|秩序]]をはじめとする既成の価値に対する不信感や、道徳、[[宗教]]、文学における[[権威]]に対する反逆心、むしろ反道徳、反宗教、反文学の精神であった<ref name=":0" />。
 
スーポーはすでに、[[夢]]を見ると必ずすぐに書き付ける習慣があったし、「[[叙事詩]]は[[映画]]によって表現されるようになる」というアポリネールの言葉に触発されて、現実離れした[[イメージ|イマージュ]]を[[カメラ]]で追うような「映画詩」を書き始めていた<ref name=":5" />。特にこの頃は、[[チャールズ・チャップリン]]の『[[担へ銃]]』([[1918年]])などが公開され、[[モンマルトル]]で[[ジャズクラブ]]が流行するなど[[米国]]の文化が紹介された時期でもあり、スーポーはこうした影響を受けて、1918年10月の『南北』誌に「[[ラグタイム]]」と題する詩を発表している。この詩は[[堀辰雄]]が邦訳し、1929年の『文芸レビュー』第1巻第7号に掲載している<ref name=":10">{{Cite journal|和書|author=槇山朋子|year=|date=1991-05-15|title=堀辰雄とフィリップ・スーポー ―「眠ってゐる男」の成立|url=http://amjls.web.fc2.com/zasshi/044.pdf|journal=日本近代文学|volume=44|page=|pages=62-74|publisher=[[日本近代文学会]]}}</ref>。
[[ファイル:Plaque André Breton et Philippe Soupault, hôtel des Grands hommes, 17 place du Panthéon, Paris 5e.jpg|サムネイル|パリ5区{{仮リンク|パンテオン広場|fr|Place du Panthéon}}17番地「ホテル・デ・グランゾム」でスーポーとブルトンが1919年に自動記述の最初の実験を行ったことが記された銘板]]
 
スーポーにとってこうした試みの指針となったのは、無名のまま没した詩人[[ロートレアモン伯爵|ロートレアモン]]の『マルドロールの歌』であった。彼はこの詩集をブルトンとアラゴンに紹介した。『マルドロールの歌』は二人にとっても詩作の方向性を決定づけるものとなり、既存の雑誌に作品を発表するより、むしろまったく新しい雑誌を作る必要があると感じた。こうして、1919年3月にスーポー、アラゴン、ブルトンによって『{{仮リンク|リテラチュール|fr|Littérature (revue)|label=}}(文学)』誌が創刊された。当初、アラゴン、ルヴェルディ、マックス・ジャコブはそれぞれ「新世界」、「鉄筋コンクリート」、「白紙委任状」という誌名を提案していたが、ポール・ヴァレリーに相談し、彼の提案による「文学」が採用された<ref name=":0" />。ただし、この誌名は一種のアイロニーであり、実際には反文学を目指す前衛雑誌である。創刊号にはルヴェルディ、ヴァレリー、アンドレ・ジッド、レオン=ポール・ファルグ、{{仮リンク|アンドレ・サルモン|fr|André Salmon|label=}}、マックス・ジャコブ、[[ブレーズ・サンドラール]]、[[ジャン・ポーラン]]が寄稿し<ref>{{Cite web|title=Littérature No. 1|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/1/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>、第3号から[[ポール・エリュアール]]、第4号から[[ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル]]と[[レイモン・ラディゲ]]、第5号からツァラが参加した。また、ロートレアモン、ランボー、[[シャルル・クロス|シャルル・クロ]]などの詩を紹介している。スーポーは第4号から演劇、映画などを紹介する文化欄を担当し、チャップリンの映画『[[犬の生活]]』、アポリネールの演劇『ティレジアスの乳房』などについて詩的な評論を書いている<ref>{{Cite web|title=Littérature No. 3|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/3/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 4|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/4/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 5|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/5/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 6|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/6/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>。さらに、第7号には代表作「他の場所で(アイユール)」などの詩を掲載するほか、1919年10月の第8号から12月の第10号までブルトンと共同で「磁場」を発表した<ref>{{Cite web|title=Littérature No. 8|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/8/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 9|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/9/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 10|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/10/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-01-10|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>。同誌はやがてダダイスムの機関誌とみなされるようになるが、「磁場」は自動記述の試みであり、ダダイスムを批判的に受け継ぐシュルレアリスムの最初の作品として重要である。[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の[[自由連想法]]の影響を受けた[[自動記述]]は、[[理性]]に制御されない純粋な思考を表現しようとする試みであり、このために、できるだけ[[無意識]]に近い状態で浮かんでくる言葉を書き付けて行き、次第にその速度を上げることで、主語(主体性)が排除され、内容も前後の脈絡のない抽象的な言葉やイマージュの連続になる。スーポーとブルトンはこの実験を毎日8時間から10時間にわたって行った<ref name=":6" /><ref name=":8">{{Cite journal|和書|author=坪川達也|month=2|year=2018|title=脳とイマージュ ― 朝吹亮二『アンドレ・ブルトンの詩的世界』に基づくシュルレアリスムの詩作と脳の機構に関する一考察|url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00062752-00000139-0091|journal=教養論叢|volume=|issue=139|page=|publisher=[[慶應義塾大学]]法学研究会|ISSN=04516087}}</ref>。
 
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|『ランデヴー』
|''Rendez-vous !''
|1972年に[[ボルドー]]で上演
|-
|『あなたの番です』
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|『ウジェーヌ・ラビッシュの生涯と作品』
|''Eugène Labiche, sa vie, son œuvre''
|Paris, Sagittaire, 1945.(1945(劇作家{{仮リンク|ウジェーヌ・ラビッシュ|fr|Eugène Labiche}}の評伝)
|-
|『ロートレアモン』
344行目:
|『失われたプロフィール』
|''Profils perdus''
|Paris, Mercure de France ([[メルキュール・ド・フランス]]), 1963, 2015
|-
|『友情』
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== 邦訳 ==
 
* [[堀辰雄]]訳「フィリップ・スポオの詩」(''SAY IT WITH MUSIC''、''WESTWEGO''の翻訳)『詩神』第5巻第3号、1929年<ref name=":10" />
* 堀辰雄訳「SWANEE」『葡萄酒』第44号、1929年<ref name=":10" />
* 堀辰雄訳「ラグタイム」『文芸レビュー』第1巻第7号、1929年<ref name=":10" />
* 堀辰雄訳「スウポオ詩抄」(''SAY IT WITH MUSIC''、''WESTWEGO''、''SWANEE''、登攀(''Escalade''))『詩と詩論』第6冊、1929年<ref name=":10" />
* [[石川湧]]訳「モン・パリ変奏曲」『世界大都會尖端ジャズ文學(第4巻)』[[春陽堂書店|春陽堂]]、1930年
* [[堀口大學]]訳「石を前に歌へる」『キユピドの箙 ― 抒情訳詩集』太白社、1930年