「内藤学文」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 内藤学文
| 画像 =
| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期▼
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 生誕 = [[寛延]]4年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]([[1751年]][[11月3日]])
| 死没 = [[寛政]]6年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[1794年]][[7月6日]])
| 改名 = 鉄之丞・金一郎(幼名)、政養(初名)→学文
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 勇信院殿仁誉宗英智山大居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]の光台院
| 官位 = [[従五位|従五位下
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[加番#大坂加番|大坂加番]]
| 主君 = [[徳川家治]]→[[徳川家斉|家斉]]
| 藩 = [[三河国|三河]][[挙母藩]]
| 氏族 = [[紀州徳川家
| 父母 =
| 兄弟 = 直松、[[徳川重倫]]、千間姫、琴姫、門之進、致姫、'''学文'''、[[松平頼興]]、[[松平頼謙]]、
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
'''内藤 学文'''(ないとう さとふみ)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[三河国
== 生涯 ==
[[寛延]]4年
この頃の挙母藩は、財政難や家臣団の対立などで苦難な状況にあり、大雨や[[矢作川]]洪水などが相次ぎ、明和5年([[1768年]])には水害で[[年貢]]収入が大減少するに至った。明和7年([[1770年]])7月には[[江戸]]屋敷が焼失した。このため、矢作川や[[安永川]]の改修に尽力した。[[安永 (元号)|安永]]5年([[1776年]])8月には[[加番#大坂
[[天明]]2年([[1782年]])に政文と改名する。天明7年([[1787年]])には[[藩校]]・崇化館を創設する。もともと四男で部屋住みの身分だったときに学問が好きになっていたため、学問に対する熱意が深く、藩校を創設した学文は自ら講義を行なったこともあったという逸話もある。特に[[儒学]]に理解があり、そのため質素倹約や孝行に尽くしたといわれる。
[[寛政]]6年
== 系譜 ==
*父:[[徳川宗将]](1720-1765)
*母:清信院 - [[吉田意安]]の娘
*養父:[[内藤政苗]](1741-1802)
*正室:政子 - 秀子、[[内藤信興]]の娘
*継室:政子 - 千代子、[[森忠洪]]の娘
*養子
**男子:[[内藤政峻]](1778-1822) - [[内藤政陽]]の次男
{{挙母藩主|内藤氏|2代|1766年 - 1794年}}
{{DEFAULTSORT:ないとう さとふみ}}
[[Category:挙母藩主|内02]]▼
[[Category:挙母内藤家|さとふみ]]
▲[[Category:挙母藩主|内02]]
[[Category:徳川宗将の子女]]
[[Category:紀州藩の人物]]
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