削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''毛 遂'''(もう すい、? - [[紀元前251285]] - ?)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[趙 (戦国)|趙国]]邯鄲(現在の[[河北省]][[邯鄲市]])の人。[[平原君]]の[[食客]]で戦国時代の著名な[[説客]]。[[詩経]]・毛詩の編者とされる毛亨は甥、毛萇も一族とされる。出自は邯鄲または薛([[山東省]]の[[滕州市]])であるとする説もある<ref>滕県誌より</ref>
 
== 略歴 ==
6行目:
 
平原君と使節団は楚に入り、[[考烈王 (楚)|考烈王]]に合従([[同盟]])を説いたが、楚は前に秦に侵攻されたこともあって脅威に思い中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち、「[[白起]]は楚の首都を焼いて楚の祖先を辱めました。合従は趙のためではない、楚のためです」と弁舌爽やかに説いて考烈王はこれを容れ、邯鄲に援軍を派遣する事を約束した。平原君は帰国すると自己の人物鑑定眼の不足を悔いると共に、毛遂の才とその才がもたらした結果を喜び帰国後に毛遂を上客とした。
 
=== 敗戦と自刎 ===
この後、平原君を説得した[[李同]]率いる三千人の決死隊が時間を稼ぎ、楚の援軍と[[魏 (戦国)|魏]]からも[[信陵君]]が率いる援軍が来援し、王陵に代わって[[王コツ|王齕]]が率いる秦軍は撃退され、趙は窮地を脱した。
 
=== 毛遂の死について ===
孝成王15年([[紀元前251年]])、[[燕 (戦国)|燕]]の[[燕王喜]]が[[楽間]]の反対を押し切り[[栗腹]]を総大将とする軍を趙に侵攻させた。これに対し孝成王は毛遂を一軍の将に任命し、燕軍に当たる様指示を出した。毛遂は断ろうとしたが、孝成王はこれを押し切って毛遂を出陣させた結果、毛遂の軍は燕軍に大敗してしまい毛遂は国の人々に会わせる顔がないと山林へ入ると自らの首を刎ね死んでしまった。
毛遂の死とその時期については近世の資料により2つの説が有る。
 
孝成王15年([[紀元前251年]])* 秦軍が撃退された直後、[[燕 (戦国)|燕]]の[[燕王喜]]が[[楽間]]の反対を押し切り[[栗腹]]を総大将とする軍を趙に侵攻させた。これに対し孝成王は毛遂を一軍の将に任命し、燕軍に当たる様指示を出した。毛遂は断ろうとしたが、孝成王はこれを押し切って毛遂を出陣させた結果、毛遂の率いる第一陣は燕軍に大敗してしまい毛遂は国の人々に会わせる顔がないと山林へ入ると自らの首を刎ね死んでしまった。
* また、[[1942年]]刊行の[[鶏沢県]]誌によると[[紀元前228年]]に秦が趙を滅ぼした際に侵攻する秦軍に趙軍と民衆を率いてこれに抵抗して、その戦いの中で戦死したとも伝えられている。
== 埋葬地 ==
毛遂は死後、邯鄲の広年県城西南(現在の河北省邯鄲市[[永年区]])に葬られた<ref>永年県志</ref>。伝説によると毛遂の墓は4ヘクタール以上の広さがあり、永年県の「八景」・「毛遂高峰」と評価された程であったという。しかし、[[文化大革命]]の際に破壊され農民の[[ダーチャ|自留地]]となり、1993年に再建された。
また、当地以外にも毛遂の墓であると伝わる墓所が毛遂の生地説も伝わる山東省滕州市にも存在する。
 
== 子孫 ==
2008年、中国毛氏研究会は邯鄲の鶏沢県を毛遂の生地と認定し、毛遂を[[毛沢東]]の世祖と発表している。
 
== 参考文献 ==
*史記 巻七十六 平原君[[虞卿]]列伝第十六
*鶏沢県誌 巻二十
 
*永年県誌
*滕県誌
== 脚注 ==
{{Reflist}}