「メーヌ・ド・ビラン」の版間の差分

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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1766|11|29|1824|7|20}}
| death_place = {{FRA1830}}・[[パリ]]
| school_tradition = [[フランス現代思想#フランス反省哲学|フランス・スピリチュアリスム]]
| main_interests = [[倫理学]]、[[精神]]<br />[[認識論]]、[[形而上学]]
| notable_ideas =
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'''フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビラン'''('''François Pierre Gontier Maine de Biran'''、[[1766年]][[11月29日]] - [[1824年]][[7月20日]])は、[[フランス]]の[[哲学者]]、[[政治家]]。一般に「メーヌ・ド・ビラン」として知られる。
 
 メーヌ・ド・ビランの活動期は[[1789年]][[フランス革命]]、[[ナポレオン]]の登場、失脚、王政復古と完全に重なり、政治家としてそれらの時代を生き抜いた(メーヌ・ド・ビランはナポレオンより3歳年下でナポレオン死後3年後に死去、とナポレオンの同世代人)。生前のビランは著名な政治家としての名が高く、哲学は彼の別の面に過ぎなかった。彼の哲学にはその経歴から期待されるような社会的・政治的な匂いはなく、身体や知覚や感情などに関する内省的な思索で貫かれており、「私たちの生きる通常の世界に降りていく哲学者が必要なのだ」と晩年に記している。<ref>『哲学の歴史 6』中央公論新社、2007年。項目≪メーヌ・ド・ビラン≫(執筆者:村松正隆).600-601頁。 (以下、『哲学の歴史6』と略す)</ref> その哲学に対する姿勢から生まれた思索は後生の哲学者の一部に影響を与え、現代に至る[[フランス現代思想#フランス反省哲学|フランス・スピリチュアリスム]]の哲学や[[フランス現代思想#フランス反省哲学|フランス反省哲学]]の源流としてビランは高い評価を受けている。<ref>(1).杉村靖彦『フランス反省哲学における神の問題』哲學研究575号、京都哲學会(2003年)。51頁. <br />(2).関連外部リンク{{Cite web |url=http://www.h7.dion.ne.jp/~pensiero/study/cogito.html |title=フランス反省哲学の分岐点(2.反省哲学とは何か) |accessdate=2015-07-29}}</ref>
 
 
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1784年(18歳)、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の近衛兵となり、[[フランス革命]]初期の1789年10月には[[ヴェルサイユ宮殿]]で国王を護衛し負傷した。近衛兵が解散され、フランス革命後の[[ジャコバン派]]による恐怖政治が始まると故郷へ戻り、自然科学や哲学の勉強に沈潜した。この時期ビランはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めている<ref name=f />。
[[File:Bouchot - Le general Bonaparte au Conseil des Cinq-Cents.jpg|thumb|230px|ブリュメール18日のクーデタ(1799.11.09). 議員たちの抵抗をうけるナポレオン]]
1794年[[テルミドールのクーデター]]により恐怖政治が終わると、地方行政と関わるようになったビランは行政官になり、1797年には[[五百人会]]議員に選ばれたが、同年、[[ナポレオン・ボナパルト]]配下の[[擲弾兵]]団がパリに呼び寄せられ(ナポレオン自身は行かなかった)[[総裁政府#フリュクティドール18日のクーデター|フリュクティドール18日のクーデター]]が起きるとビランは王党派として(ビランは一貫して穏健な立憲王政の支持者だった)当選を取り消された。<ref name=a />
 
1799年11月ナポレオンによる[[ブリュメールのクーデター]]、1804年ナポレオンの[[フランス皇帝]]戴冠による帝政への移行など激動が続くなか、ビランは地方で議会議員、県議会議員、ベルジュラック郡長を務めながら地方行政に力を尽くした(橋・川のインフラ整備、文化財保護、産業・人口調査、初等教育の改善など<ref name=a />)。
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*1802年  同 「思惟機能はいかに分解されるべきか」 執筆中、妻の急死に遭い未完。<ref>「魂が粉々に打ち砕かれたとき、哲学は何の役にたとう」と1804年の書簡にビランは記している.(『哲学の歴史6』606頁および訳註3)</ref>
*1805年  同 「   (同一課題)    」  応募、受賞。(『思惟の分析』)
*1807年 懸賞論文([[ベルリン・アカデミー]])    応募、次席受賞(『直接的統覚について』)
*1811年  〃 ([[コペンハーゲン]]王立アカデミー) 応募、受賞(『人間の身体と精神の関係』)
:以後、これまでの自分の考えの総合として後生『心理学の諸基礎についての試論』と呼ばれるようになる原稿の執筆に取り組むも未完に終わる。<br />(1805年『思惟の分析』から『心理学の諸基礎についての試論』までの時期の思想を"ビラニスム"という。<br /> ビラニスム時代の原稿は生前には出版されていない。)
*1812年 立法院議員としてパリに出てきたビランは、自宅で哲学のサークルを始める。
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===概要===
[[観念学]](idèologie,イデオロジー)<ref>「フランス革命移行に学士院などを根城としながら諸学問の改革とその教育を目ざした人々の発想を一般に指している。」「経験論にのっとり、生得観念や宗教的観念を否定しつつ、啓蒙の理念を実地に推進しようとした。」イデオロジーの代表的な思想家として[[カバニス]]、[[デステュット・ド・トラシー]]などが挙げられ、広義の観念学派としては[[スタンダール]]まで含まれ、分派的後継者として[[オーギュスト・コント]]を挙げる論者もいる。(『哲学の歴史6』.575、595、613-615頁)</ref>の立場からビランは認識に対する研究をはじめたが、その後イデオロジーとは異なる[[フランス現代思想#フラン反省哲学ピリチュアリスム|スピリチュアリスム]]の立場で独自の哲学(ビラニスム)を構築することとなる。ビラニスム時代の哲学は宗教的ではなかったが、その後思想立場が移り、晩年は[[神秘主義]]にも接近している。
内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「内奥感の根源的事実」「内的事実」「内的空間」「反省的諸概念」などの概念を提示している。
 
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*[[ナポレオン・ボナパルト]]
*[[フランス革命]] 
*[[フランス現代思想|フランス・スピリチュアリスム]]
*[[フランス現代思想#フランス反省哲学|フランス反省哲学]]
*[[マールブランシュ]]
*[[ベルクソン]]