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[[ファイル:Francesco_Sforza.jpg|thumb|200px|フランチェスコ・スフォルツァ [[ボニファーチョ・ベンボ]]画 ([[ブレーラ絵画館]], [[ミラノ]])]]
'''フランチェスコ・スフォルツァ'''({{lang|it|'''Francesco Sforza'''}}、[[1401年]][[7月23日]] [[サン・ミニアート]] - [[1466年]][[3月8日]] [[ミラノ]])は、[[ルネサンス]]期イタリアの傭兵隊長([[コンドッティエーレ]])で、[[スフォルツァ家]]最初の[[ミラノ公国|ミラノ公]]である。
 
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16歳の時、傭兵隊長{{仮リンク|アンジェロ・ラヴェッロ|en|Angelo Tartaglia}}(通称タルタリア、Angelo Lavello detto il Tartaglia)と対戦し頭角を現した。
 
[[1418年]][[10月23日]]、[[ロッサーノ]]においてポリッセナ・ルッフォ{{enlink|Polissena Ruffo}}と結婚した。ポリッセナは、[[カラブリア州|カラブリア]]の[[モンタルト・ウッフーゴ]]の貴族の娘で、フランス人騎士ジャコモ・デ・マイッリ(Giacomo(Giacomo de Mailly)Mailly)の未亡人であり、特に[[コゼンツァ]]において多くの土地を支配していた。[[1420年]]にポリッセナはアントニア・ポリッセナ(Antonia(Antonia Polissena)Polissena)という娘を産むが、まもなく死んだ。
 
[[1424年]]1月に[[ペスカーラ]]で父が死去すると、フランチェスコは父の遺産を引き継ぎ、4月にはナポリを奪回してアラゴン人(アラゴン王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]])との戦争を終結させた。
 
=== ミラノにて ===
[[1425年]]、フランチェスコは[[ミラノ公国]]の{{仮リンク|フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ|en|Filippo Maria Visconti}}に仕え始めた。スフォルツァとヴィスコンティの関係はどちらかというと悪い関係で、公は、たとえしなくてはならなくても傭兵隊長の強い個性耐え切れなかった。いくつかの戦いに勝利したスフォルツァは[[1428年]]から[[1429年]]の気まぐれな公の好意を待つ間留まった場所である[[モルターラ]]を与えられた。またある時には最良の司令官として公国の危機を救った。その褒美としてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ公は庶出の娘[[ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ|ビアンカ・マリーア]]を彼に託した。
 
[[1447年]]にフィリッポ・マリーアが後継ぎを残さずに死ぬと、ミラノ領は共和制の政府が樹立された({{仮リンク|アンブロジアーナ黄金共和国|en|Golden Ambrosian Republic}}。しかし[[1450年]][[3月22日]](3月25日の説もある)、ミラノを長らく包囲し兵糧攻めを行っていたフランチェスコは、ミラノに入城することに成功した。
 
都市の近代化や効率的な税制は政府の収入の著しい増大をもたらしたことは、フランチェスコが良い支配者である事を示している。
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彼の宮廷は芸術と文化の中心となりミラノ人の間でとても人気となった。
 
傭兵隊長たちの中には、[[1452年]]から[[1453年]]に[[ヴェネツィア共和国]]の将軍となる[[バルトロメーオ・コッレオーニ]](Bartolomeo(Bartolomeo Colleoni)Colleoni)が参加していた。
 
[[コジモ・デ・メーディチ]]との相互評価と友好関係で、ミラノと[[フィレンツェ]]は同盟関係にあり、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]との[[ローディの和]]の実現をともに成し遂げた。
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[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]は『[[君主論]]』において、良い政府の例と傭兵隊の使用に対する訓戒として、しばしばフランチェスコを引き合いに出した。
 
== 興味署名 ==
フランチェスコ・スフォルツァは決してこの名前での署名はせず、結婚してヴィスコンティの姓を許されるまではフランチェスコスフォルツァ・デッリ・アッテンドリ(''Francescosforza degli Attendoli'')、その後はフランチェスコスフォルツァ・ヴィスコンティ(''Francescosforza Visconti')')とした。
 
== 後継者子女 ==
*最初の結婚は[[1418年]]にポリッセナ・ルッフォ (Polissena(Polissena Ruffo, [[1420年]]死去)結婚したが、ポリッセナは1女を産んだ後死去した。
** アントニア・ポリッセナ(1420年)
*二度目の結婚は[[1441年]][[10月14日]]に[[ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ]](Bianca Maria Visconti)と
 
**[[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ|ガレアッツォ・マリーア]](Galeazzo Maria, [[1444年]] - [[1476年]]), 1466年 - 1476年ミラノ公
*二度目の結婚は[[1441年]][[10月14日]]に[[ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ]](Bianca Maria Visconti) 結婚し、以下の子女をもうけた。
**[[イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ|イッポーリタ・マリーア]](Ippolita Maria, 1446年 - 1484年) 1465年にナポリ王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]と結婚。
**[[フィリガレアツォ・マリーア・スフォルツァ|フィリガレアツォ・マリーア]](Filippo(Galeazzo Maria, 1449[[1444]] - 1492[[1476)]]) コルシカ・パヴィーア伯- ミラノ公(1466年 - 1476年)
**[[スフォルツァイッポーリタ・マリーア・スフォルツァ|スフォルツァイッポーリタ・マリーア]](Sforza(Ippolita Maria, 14511446年 - 14791484) バー- 1465年にナポ王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]と結婚。
**[[ルドヴーコリッポ・マリーア・スフォルツァ|ルドヴーコリッポ・マリーア]] (Ludovico(Filippo Maria, 14521449年 - 15081492) 「イ- コシカパヴィロ」ア伯
**[[エリザベッタスフォルツァ・マリーア・スフォルツァ|エリザベッタスフォルツァ・マリーア]] (Elisabetta(Sforza Maria, 14531451年 - 14721479)) - バーリ公
**[[アスカルドヴィニオ・マリーア・スフォルツァ|アスカルドヴィニオ・マリーア]](Ludovico (AscanioMaria, Maria,14551452年 - 15051508) パヴィ- 「イル・モア司教ロ」枢機卿ミラノ公(1494年 - 1500年)
**[[エリザベッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァ|エリザベッタヴィアーノ・マリーア]] (Ottaviano(Elisabetta Maria, 14581453年 - 14771472) ルガーノ伯
**[[アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ|アスカーニオ・マリーア]](Ascanio Maria,1455年 - 1505年) - パヴィーア司教、枢機卿
*庶子かどうかはっきりしない者では
**[[オッタヴィアーノ・マーア・フォルツァ|オッヴィアーノ・マリーア]] (Tristano,Ottaviano [[1422Maria 1458]] - [[1477年]][[7月11日]]ミラ) - ルガー)
 
*ジョヴァンナ・ダックアペンデンテ(Giovanna Dd'Acquapendente)との間の庶
**ポリッセナ (Polissena, [[1428年]] - [[1449年]]) [[リミニ]]領主[[シジズモンド・マラテスタ]] (Sigismondo Malatesta)と結婚、暗殺された。
**トリフォルツァ・セコンド (Sforza Secondoターノ(Tristano, [[14331422年]] - [[14921477年]] あるいは [[1493年7月11日]]) ミラノ)
**ポリッセナ (Polissena(Polissena, [[1428年]] - [[1449年]])) - [[リミニ]]領主[[シジズモンド・マラテスタ]](Sigismondo (Sigismondo Malatesta)Malatesta)と結婚、暗殺された。
**ドリュシアナ (Drusiana, [[1437年]][[9月30日]] - [[1474年]][[6月29日]]) ヤーコポ・ピッチニーノ{{enlink|Jacopo Piccinino||it}}と1464年8月12日に結婚
**スフォルツァ・セコンド(Sforza Secondo, [[1433年]] - [[1492年|1492]]/[[1493年|3年]])
**ドリュシアナ (Drusiana(Drusiana, [[1437年]][[9月30日]] - [[1474年]][[6月29日]])) - ヤーコポ・ピッチニーノ{{enlink|Jacopo Piccinino||it}}と1464年8月12日に結婚
 
== 関連項目 ==
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* [[ヴィスコンティ・スフォルツァ版タロット]]
 
{{先代次代|[[ミラノの支配者一覧|ミラノ公]]|1450 - 1466|([[アンブロジアーナ共和国]])|[[ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ|ガレアッツォ・マリーア]]}}
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