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司令部が台湾に逃亡したのち、搭乗員や整備兵といった航空要員は、育成が困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾に避難させることにした。これには陸海軍の協力体制が構築され、輸送機、練習機、爆撃機など人員を多く乗せることができる機体がルソン島北部[[トゥゲガラオ]]飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=294}}</ref>。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦を救援に出すこととしたが、台湾を出てルソン島に向け航行中に「[[梅 (松型駆逐艦)|梅]]」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。やむなく海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦[[バットフィッシュ (潜水艦)|バットフィッシュ]]に待ち伏せされ、[[呂号第百十二潜水艦|呂112]]と[[呂号第百十三潜水艦|呂113]]が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは[[呂号第四十六潜水艦|呂46]]のみであった。しかし、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大輸送作戦となった<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=295}}</ref>。輸送機には、従軍記者や<ref>{{Harvnb|大東亜戦史③|1969|p=391}}</ref>、従軍看護婦や、日本軍が愛用していたマニラの料亭「広松」の女将や芸者といった女性も[[軍属]]扱いで優先的に搭乗できたが<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=270}}</ref>、第4航空軍司令部幕僚が搭乗した機が撃墜され<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=265}}</ref>、また、連絡無く台湾[[澎湖諸島]]の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で[[同士討ち]]された機もあって、兵器部長[[小沢直治]]大佐、経理部長[[西田兵衛]]大佐、軍医部長[[中留金蔵]]大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=276}}</ref>。
 
佐々木も台湾に撤退するため、1月20日にはどうにか司令部のある第4飛行師団[[エチアゲ]]に到着したが、他の航空要員の撤退が進む中でも、公式には戦死扱いであった佐々木には、輸送用の航空機に搭乗するための証明書が第4飛行師団司令部より発行されず、そのままルソン島に取り残された<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.1623}}</ref>。そこで佐々木は台湾への撤退のために待機していた従軍記者とあったが、記者らは南方の戦場には似付かわしくない、丸々と太った色白の佐々木を見て、すっかり戦死したものと考えていたため「[[幽霊]]が出た」とばかりに驚いたが、すぐに状況を把握し、「どうです、随分苦労されたのだから、内地に1度還っては」と訊ねると、佐々木は、「自分が生きていては工合悪い向きもある様ですから」「それに生きている特攻隊員なんて話にもなりませんよ」と高笑いしながら山中に消えていったという<ref>1945年10月26日付朝日新聞記事「部下特攻隊を置去り歸國した富永指揮官 生きてた佐々木伍長の嘆き」</ref>。しかし、新聞記者の前では気丈に振る舞った佐々木であったが、内心は「もう俺も、これで日本には帰れないな」と思って落ち込んでいた<ref>{{Harvnb|鴻上尚史|2017|p=|loc=電子版, 位置No.2145}}</ref>。佐々木の存在は極秘事項として隠されていたという主張もあるが、作家の[[大佛次郎]]は知り合いの新聞記者から佐々木の話を聞かされており、1945年8月5日の日記に「特攻隊で二階級進級上聞に達した佐々木曹長というのは爆弾を落とした後不時着しルソン島で生きていた。しかしこれは上聞まで達したことで自爆したことになっており、帰還の望みなく部隊の残飯給与を受けて生きている。一旦死んだ男なのでこれを使うことはどの司令官もできぬ」と書いているなど、極秘というほど隠されていたわけではなかった<ref>{{Harvnb|一ノ瀬俊也|2020|p=|loc=電子版, 位置No.2878}}</ref>。
 
佐々木は似たような境遇の特攻隊員の生存者らと臨時集成飛行隊として編成されたが、集成飛行隊には1機の稼働機もなかった<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=317}}</ref>。他にルソン島の取り残された多くの第4航空軍将兵は、第14方面軍の山下の指揮下に入って地上戦を戦うこととなった。十分な装備はなかったが、決して烏合の衆ではなく、ルソンに残った第2航空師団参謀長猿渡の作戦指導のもとで、高い士気で鉄の団結を作り上げて<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑥|1987|p=|loc=電子版, 位置No.4131}}</ref>、激戦地となった[[バレテ峠]]や[[サラクサク峠]]では「東京を救おう」を合い言葉に、山下の指揮通り、徹底した拘束持久作戦を戦って、連合軍を長い期間足止めしたが、激戦と飢餓や病気により多くの将兵が命を落とした<ref>{{Harvnb|高木俊朗③|2018|p=338}}</ref>。一方、佐々木ら臨時集成飛行隊には地上戦を戦う意志はなく、連合軍がエチアゲに迫ると、佐々木は戦うこと無くアメリカ軍を避けて山中に逃げ込み、自作した粗末な小屋で自給自足の生活を送り、飢餓と病気に苦しみながらもどうにか[[終戦の日|終戦]]まで生存し、アメリカ軍に投降して捕虜となった<ref>{{Cite web |date= 2018-08-03|url=https://www.news-postseven.com/archives/20180805_714112.html?PAGE=5 |title= ゼロ戦9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」|publisher= ポストセブン|accessdate=2018-08-05}}</ref>。
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* {{cite book|和書|author=生田惇|title=陸軍航空特別攻撃隊史|publisher=[[ビジネス社]]|year=1977|asin=B000J8SJ60|ref={{SfnRef|生田惇|1977}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=池田佑 編 |year=1969 |title=大東亜戦史 |volume=3 フィリピン編 |publisher=富士書苑 |asin=B07Z5VWVKM |ref={{SfnRef|大東亜戦史③|1969}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[一ノ瀬俊也]] |year=2020 |title=特攻隊員の現実 |publisher=講談社 |isbn=978-4065184400|ref={{SfnRef|一ノ瀬俊也|2020}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[大岡昇平]] |year=1974 |title=レイテ戦記上巻 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122001329|ref={{SfnRef|大岡昇平㊤|1974}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[大岡昇平]] |year=1974 |title=レイテ戦記中巻 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122001411|ref={{SfnRef|大岡昇平㊥|1974}}}}