「天幕駅」の版間の差分

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地名より。由来は諸説ある<ref name=":0">{{Cite book|author=本多 貢|editor=児玉 芳明|title=北海道地名漢字解|url=https://www.worldcat.org/oclc/40491505|date=1995-01-25|year=|accessdate=2018-10-16|publisher=[[北海道新聞社]]|language=日本語|isbn=4893637606|page=150|location=札幌市|last2=|author2=|first2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|oclc=40491505}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|url=http://story.engaru.jp/story/%E5%A4%A9%E5%B9%95%E4%B8%89%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E6%B2%A2/|title=天幕三次郎とカクレ沢|accessdate=2018-10-18|website=えんがるストーリー|publisher=[[遠軽町]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181018130610/http://story.engaru.jp/story/%E5%A4%A9%E5%B9%95%E4%B8%89%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E6%B2%A2/|archivedate=2018-10-18}}</ref><ref name=":02">{{Cite book|和書|author=|editor=札幌鉄道局編|title=駅名の起源|date=|year=1939|accessdate=|publisher=北彊民族研究会|page=|pages=96-97|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|id={{NDLJP|1029473}}}}</ref>。
 
もともと同地は現在の[[上越信号場|上越]]・[[中越信号場|中越]]などとともに、[[アイヌ語]]で「道・越える(=越える道)」を表す「ルペㇱペ(ru-pespe)」から「ルベシベ(ルペシュペ)と呼ばれていたが<ref name=":02" />、[[1889年]](明治22年)から[[1893年]](明治26年)にかけて[[囚人道路 (日本史)#中央道路|中央道路]](のちの[[国道39号]]に相当)建設にあたって天幕([[テント]])が張られたことから「天幕」と名付けられたとされ、『駅名の起源』(1939年版)ではこの説を採る<ref name=":02" />。この天幕については、測量時に張られたテントであったという説や<ref name=":1" />、天幕張りの事務所であったという説<ref name=":02" />がある。
 
このほか、後述の天幕三次郎と自称した男性に由来するとした説があり、しばしば人名由来の地名・駅名と紹介される<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=北海道 駅名の起源|date=1973-3-25|year=|publisher=日本国有鉄道北海道総局|ref=ekimei1973|url=|edition=第1版|ASIN=B000J9RBUY|location=札幌市|author=|accessdate=|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|page=210}}</ref><ref name="北の保線" />。
 
==== 天幕三次郎 ====
中央道路建設と同時期の[[1890年]](明治23年)から、同地の留辺蘂川畔で清水三次郎という男(以下三次郎)が小屋で狩猟生活をしており、天幕三次郎と呼ばれていた<ref name=":1" /><ref group="注釈">彼の出自は幕府旗本と[[アイヌ]]の女性の間に生まれた子の一人(三男)とされている。</ref>。この呼び名は中央道路測量のテントを張った場所に住みついたことから三次郎が自称したとする説<ref name=":1" />や、三次郎が天幕生活をしていたことからついた名とする説<ref name=":0" />などがある。
 
三次郎は1897年(明治30年)頃には広い家を建て、同地で私設の[[駅逓所|駅逓]]の役割を果たしていたが、[[1903年]](明治36年)に同棲していた未亡人の連れ子である、お花という女性と駆け落ちし、六号野上(現在の[[遠軽町]][[新栄野駅|栄野]])の駅逓で駅逓夫として働いた<ref name=":1" />。
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==== 田辺朔朗と三次郎 ====
三次郎が天幕の地で暮らしていたころの、[[1896年]](明治29年)[[8月21日]]、当地北海道庁鉄道建設部長として鉄道敷設調査を行っていた土木技師、[[田辺朔郎]]らの一行は、同地で泊地を探している途上で彼の小屋に一泊することとなった。三次郎は寝食の世話をし、風呂までこしらえるなどの歓待をした<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref name="北の保線">{{Cite book|ref=北の保線|author=太田幸夫|title=北の保線 線路を守れ、氷点下40度のしばれに挑む|date=2011-08-15|year=|accessdate=|publisher=[[交通新聞社]]|pages=174-175|volume=|location=|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|id=ISBN 978-4-330-23211-9}}</ref>。
 
このため、1973年に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』をはじめとし、田辺による三次郎への感謝の気持ちの表れ、として、同地に設置される駅の名称が「天幕」となったと紹介する文献もある<ref name=":2" /><ref name="北の保線" />。
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=== 現況 ===
駅舎は解体されたが、信号関係の建物は今でも残っている。かつての構内を通る本線の線形は[[2016年]]現在でも直されておらず、駅舎側に寄ったそのままの形に残されている。
駅舎があった所には[[北海道旅客鉄道旭川支社|旭川支社]]が建立したにより記念碑が設置された。
 
=== 周辺 ===