「矢部禅尼」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[建久]]5年([[1194年]])2月に13歳の泰時が元服した際、[[源頼朝]]の命により[[三浦義澄]]の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が決められる。この8年後の[[建仁]]2年([[1202年]])8月23日、義澄の[[嫡子|嫡男]]義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の[[北条時氏|時氏]]が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である[[安保実員]]の娘が泰時の次男[[北条時実|時実]]を[[建暦]]2年([[1212年]])に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでも無く、理由は不明である<ref name="北条時頼p7">{{Cite book|和書|author=高橋慎一朗 著『人物叢書‐|authorlink=高橋慎一朗|title=北条時頼|series=人物叢書|publisher=吉川弘文館|year=2013年、p.|page=7}}</ref>。
 
その後、三浦氏[[佐原氏|佐原]]流の[[佐原盛連]]に再嫁して三子(蘆名光盛・[[三浦盛時|加納(三浦)盛時]]・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。[[嘉禎]]3年([[1237年]])6月、幕府から矢部禅尼に[[和泉国]]吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した[[宝治]]元年([[1247年]])の[[宝治合戦]]では、佐原氏の多くは三浦氏側について滅んだが、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦っていて、彼女が関わっていたと考えられる。盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
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== 脚注 ==
=== 註釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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== 参考文献 ==
;書籍
* [[高橋慎一朗]]『北条時頼』[[吉川弘文館]](人物叢書)、[[2013年]]
;史料
* 『[[明月記]]』
 
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[[Category:三浦氏]]
[[Category:北条氏]]