「本多熊太郎」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
東京法学院([[中央大学]])法科在学中の[[明治]]27年([[1894年]])5月に外務省留学生試験合格、翌年の明治28年([[1895年]])8月に外務省書記生試験([[外交官#採用|専門職]])に合格し、[[外務省]]入省。明治34年(1901年)、[[小村壽太郎|小村寿太郎]]外相の秘書官となり、[[日露戦争]]の[[ポーツマス条約|ポーツマス講和会議]]に随行。[[後藤新平]]の満鉄総裁当時、[[北京市|北京]]公使館の二等書記官となった。[[大正]]7年([[1918年]])、スイス公使、[[大正]]13年([[1924年]])からドイツ大使を務めて退任。ドイツ大使を務める間、[[欧州統合]]論の主導者[[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー|クーデンホーフ=カレルギー]]伯と親交を結び、伯の論評を読んで報告を上げてきた外交官[[鹿島守之助|]](当時は永富守之助。のち[[鹿島建設]]会長、戦後自民党議員)に伯を紹介した<ref>{{harvnb|平川|2011|p=5}}; [[#『RCK通信』|戸澤 『RCK通信』]]</ref>。
 
[[昭和]]15年([[1940年]])、[[松岡洋右]]外相に起用されて[[汪兆銘]]政権下の南京に中国大使として赴任。昭和19年([[1944年]])に[[東條内閣]]の外交顧問に就任。