「アート・ブレイキー」の版間の差分

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[[1944年]]から[[ビリー・エクスタイン]]の楽団へ入り、[[1940年代]]後半から[[マイルス・デイヴィス]]、[[セロニアス・モンク]]、[[チャーリー・パーカー]]らと共演後、[[1954年]]から[[1955年]]にかけて[[ホレス・シルヴァー]]と初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。[[クリフォード・ブラウン]]や[[ルー・ドナルドソン]]らを擁してジャズ・クラブの[[バードランド]]に出演して人気を博した。
 
[[1956年]]にシルヴァーが脱退した後、ジャズ・メッセンジャーズは不遇の時代を迎えた。それを打開するきっかけを作ったのが、[[1958年]]2月、当時ジャズ・メッセンジャーズにいた[[ジャッキー・マクリーン]]が麻薬で逮捕されキャバレー・カードを没収されたことで、その代役を務めた[[ベニー・ゴルソン]]と出会ったことである。ここでブレイキーがゴルソンの几帳面な性格が気に入り、彼にグループの立て直しを要請。メンバーもトランペットに[[リー・モーガン]]、ピアノに[[ボビー・ティモンズ]]、ベースに[[ジミー・メリット]]と自分とゴルソン以外は全員入れ替え、今や代表曲となっている「[[モーニン]]」(ティモンズ作曲)、「[[ブルース・マーチ]]」(ゴルソン作曲)等の新たなオリジナル曲が出来て新しいレパートリーに付け加えられ、1958年10月、新メンバーでのお披露目初公演をニューヨークのタウン・ホールにて行い大成功を収め、同月30日、[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]に前記の曲を含めたアルバム「[[モーニン]]」(レコード番号:BLP/BST-4003)を収録し、同アルバムは翌月発売<ref>「ブルーノート・レコード オリジナル・プレッシング・ガイド」(フレデリック・コーエン著、[[行方均 (音楽評論家)|行方均]]訳。[[ディスクユニオン]]刊)の「発売日」の項目に記載されている。</ref>これが大ヒットとなる。このレコードの発売当時、ブルーノートは海外でのプレスを一切許可していなかった関係で、1967年まで日本国内プレス盤は発売されなかった(発売当時、一部のレコード店で、僅かに米からの輸入盤LPが発売されていたものの、日本それに比べれば約2ほぼ倍の値段がして、非常に高だった)。
 
しかし、このアルバム録音直後にバンドが欧州公演を行った際に、同年(1958年)[[12月28日]]に[[フランス]]の[[パリ]]のサンジェルマンで録音されたライブ・アルバム『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ ''Art Blakey & Les Jazz Messengers Au Club St Germain''』(仏RCA原盤)が当時の[[日本ビクター|日本ビクター音楽部]]から発売され、また1959年公開の[[ヌーヴェルヴァーグ]]映画作品『[[危険な関係]] ''Les Liaisons dangereuses''』(監督:[[ロジェ・ヴァディム]])、『殺られる ''Des Femmes Disparaissent''』(監督:[[エドゥアール・モリナロ]])への音楽参加を契機として、日本でもこれらの曲が知られ大ヒットし、空前のファンキー・ブームが起こった。因みに、[[マイルス・デイヴィス]]も前年公開の『[[死刑台のエレベーター]] ''Ascenseur pour l'échafaud''』(監督:[[ルイ・マル]])での音楽を担当している。