「水原秋桜子」の版間の差分
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== 経歴 ==
[[東京市]]神田区猿楽町(現・[[東京都]][[千代田区]]神田猿楽町)に代々[[産婦人科]]を経営する[[病院]]の家庭に生まれる。父・漸、母・治子の長男。[[獨逸学協会学校]](現在の[[獨協中学校・高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[1914年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院医学系研究科・医学部|医学部]]へ入学<ref group="注釈">一高では野球部、大学では東大俳句会に参加した。『句集 葛飾笹』笹書房、1951年
[[1918年]]、[[高浜虚子]]の『進むべき俳句の道』を読んで俳句に興味を持ち、「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」を購読。[[1919年]]、血清化学教室の先輩に誘われ、医学部出身者からなる「木の芽会」参加、静華の号で俳句を作る。同会に「[[渋柿]]」の関係者が多かったことから、「[[渋柿]]」に投句し[[松根東洋城]]に師事。ついで[[高浜虚子]]の「ホトトギス」にも投句をはじめる<ref>『水原秋櫻子集』 三橋敏雄解説、354頁。</ref>。[[1920年]]、短歌を[[窪田空穂]]に師事、「朝の光」に短歌を投稿する。[[1921年]]より「ホトトギス」の例会に出席し、虚子から直接の指導を受ける。[[1922年]]、[[富安風生]]、[[山口誓子]]、[[山口青邨]]らと[[東大俳句会]]を再興。佐々木綾華主宰の「破魔弓」同人。[[1924年]]、「ホトトギス」課題選者に就任。1928年、自身の提案で「破魔弓」を「[[馬酔木 (雑誌)|馬酔木]]」に改題、のちに主宰となる。[[1929年]]、「ホトトギス」同人。この年、山口青邨の講演で触れられたことにより、誓子、[[阿波野青畝]]、[[高野素十]]らとともに「'''ホトトギスの四S(しエス)'''」として知られるようになる。
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