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|時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
|生誕=[[永禄]]9年([[1566年]])
|死没=[[万治]]元年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]{{Sfn|丸島和洋|2016|ppp=65-66}}([[1658年]][[11月12日]])
|改名 = 源三郎(仮名)→信幸(初名)→信之
|別名 = 一当斎(号)
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== 生涯 ==
=== 武田家臣時代 ===
[[永禄]]9年([[1566年]])、武藤喜兵衛(後の[[真田昌幸]])の長男として生まれる{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=76}}。父は三男であったため武田家の親類衆・武藤家を継承していたが、天正3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]で兄の[[真田信綱|信綱]]・[[真田昌輝|昌輝]]がともに戦死したことから真田姓に復姓して家督を継承した。信幸(信之)は信綱の嫡女である[[清音院殿]]を妻に迎えているが、この従兄弟同士の婚姻の背景には、昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったことが指摘される{{Sfn|丸島和洋|2015|p=66}}{{Sfn|丸島和洋|2015|p=262}}。昌幸は庶流家ということもあり、永禄10年(1567年)3月頃までの真田信綱の家督相続後に[[真田幸隆|幸綱]]・信綱宛の文書は、[[福井藩]]士となった昌輝子孫に「越前真田家文書」として伝来しており、昌幸は「家伝文書」を相続することができない事情があったと考えられている{{Sfn|丸島和洋|2015|p=66}}。なお、婚姻時期も速やかに家督継承を行う為、信綱の戦死から間を開けず、比較的早い段階であったと推測される。ただし、天正3年には信幸もまだ幼年(10歳)であったので、婚約という形をとった可能性が高い。
 
その後、信幸は武田家の[[人質]]として過ごした{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=77}}。『[[加沢記]]』に拠れば、天正7年([[1579年]])に[[武田勝頼]]の嫡男・[[武田信勝|信勝]]の[[元服]]と同時に元服を許され、信玄の1字を賜って'''信幸'''と名乗ったとされるが{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=77}}、「信」の偏諱は勝頼からとする説もある<ref>丸島(2014)、p.57{{要出典|date=2016年9月|title=2014年に丸島先生が出版された文献が参考文献欄に提示されてません。2015年出版の『真田四代と信繁』のことでしょうか?}}</ref>。初見史料は天正6・7年の『真田氏給人知行地検地帳』で、「若殿様」として名が見られる。
 
[[天正]]10年([[1582年]])3月に武田家が[[織田信長]]の[[武田征伐]]によって滅ぼされると、同じく人質だった母の[[山手殿]]と共に上田の父の元へと逃れた{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=77}}。
 
=== 武田滅亡後 ===
信長が[[本能寺の変]](1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る[[天正壬午の乱]]が発生した。[[相模国]]の[[北条氏直]]は織田家臣・[[滝川一益]]を[[神流川の戦い]]で破ると、真田家は[[後北条氏]]に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=77}}。
 
同じ頃、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の[[海津城]]を撹乱した。だが、やがて[[徳川家康]]に臣従した武田遺臣・[[依田信蕃]]や叔父の[[真田信尹]]らの誘いにより、[[沼田城]]を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の[[富永主膳]]軍5,000が防衛する[[手子丸城]]を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
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天正13年([[1585年]])、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次[[上田合戦]])。信幸は支城の[[戸石城]]に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。
 
その後、昌幸は上杉景勝を介して[[豊臣秀吉]]に臣従し、天正17年([[1589年]])には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の[[本多忠勝]]の娘・[[小松姫]]を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=77}}。
 
天正18年([[1590年]])、沼田領割譲問題から発生した[[小田原征伐]]で信幸は上野[[松井田城]]攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=78}}。
 
[[文禄]]3年([[1594年]])11月2日には[[従五位|従五位下]][[伊豆国|伊豆守]]に叙任される{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=78}}(同日、弟・[[真田信繁]]は従五位下[[衛門府|左衛門佐]]に叙任)。その後、年月日不詳ながら[[従四位|従四位下]]に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。[[文禄・慶長の役]]では[[肥前国|肥前]][[名護屋]]まで赴いている。
 
=== 関ヶ原の戦い ===
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=== 幕藩体制下 ===
[[ファイル:Matsushiro Castle 20100919-01.jpg|thumb|松代城址]]
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり[[上田藩]]主となったが、[[上田城]]は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った[[仙石氏]]が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から'''信之'''に改めている(なお、慶長13年([[1608年]])から17年([[1612年]])までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている{{Sfn|平山|2016|p=296-297}})。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され[[紀伊国]][[九度山町|九度山]]へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
 
信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた{{Sfn|平山|2016|ppp=169-288}}。
 
慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]では病気のために出陣できず、長男の[[真田信吉|信吉]]と次男の[[真田信政|信政]]が代理として出陣した。[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])10月、信濃[[松代藩|松代]]に加増移封され{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=78}}、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
 
[[明暦]]元年([[1656年]])、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・[[真田熊之助|熊之助]]が既に死去していたため、次男の信政に[[家督]]を譲って[[隠居]]する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・[[真田信利|信利]]が次男の血統(信政の六男)である[[真田幸道|幸道]]の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は[[沼田藩]]として独立し、松代藩は10万石となる)。
 
同年10月17日に死去{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=78}}。享年93。[[辞世]]は「'''何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり''' 」。
 
墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺[[長国寺 (長野市)|真田山長国寺]]には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に[[真田幸貫|幸貫]]が[[老中]]となっている。[[明治維新]]後に[[子爵]](後に[[伯爵]])家となった。
 
== 人物・逸話 ==
* 93歳という長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった{{Sfn|平山|2016|p=396}}。元和2年、51歳の時には[[マラリア]]を病み、徳川家康の病気見舞いに行けずに、代わりに長子の信吉を駿河に遣わしている<ref name="health30">[[{{Sfn|宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法』、|2002|p.=30、中央労働災害防止協会、2002年。</ref>}}。翌年の5月16日にも江戸への参勤を一日延ばしており、周期的にマラリアの発作を起こしていたとみられる<ref name{{Sfn|宮本|2002|p="health30" />32}}。76歳の寛永18年2月には腫物に苦しめられている<ref name{{Sfn|宮本|2002|p="health30" />30}}
* [[前田利益]]とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた<ref>『加沢記』『滝川一益事書』より。</ref>
* 天正10年([[1582年]])10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・[[大戸真楽斎]]とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田氏家臣の[[唐沢玄蕃]]に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の[[鎌原幸重]]を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、[[徳川将軍家]][[旗奉行]]となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。
* 第一次上田合戦の頃、徳川軍と連携して[[塩田平]]の土豪・杉原四郎兵衛が一揆を起こし、冠者ヶ嶽城などを根拠として真田氏に抵抗した際、敵方の城を巡見した信之は、身分の低い水出大蔵という馬丁の意見を容れて城を攻め落とし、水出には褒美を与えた。後年、信之はこの時のことを振り返って「水出は馬丁の立場で出過ぎた行動だったかもしれない。しかし彼は、あの地域のことを良く知っていた者である。戦場ではまず人の区別なく意見を聞き、道理に従い行動すべきである。身分が低いからといって、相手を侮り、水出の献策を用いなければ、あの城は一時で落とすことはできなかったであろう」と述べており、相手の身分に関係なく有用な意見は用いようとしていた{{Sfn|平山|2016|ppp=86-88}}。
* [[豊臣政権]]時代、信之が最も親しく交流していた秀吉の家臣は真田氏の[[取次]]を担当していた[[石田三成]]であり、その交友関係は他の大名にも知られるところであった。「真田家文書」には14通もの三成からの書状が残されている{{Sfn|丸島和洋|2015|ppp=266-267}}。家康に対して決起した三成は当然信之も味方に付いてくれると予想していたが、結局信之は徳川方に付いている{{Sfn|平山|2016|ppp=149-150}}。
* いわゆる「真田の[[赤備え]]」は弟・信繁が[[大坂の陣]]で用いたのが有名だが、文禄2年([[1593年]])に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、[[指物]]はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた{{Sfn|平山|2016|ppp=113-114}}。
* 2度の[[上田合戦]]や[[大坂の陣]]において真田家が徳川軍を苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方に付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している{{Sfn|平山|2016|ppp=322-331}}。)ことから幕府に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。
* 松代への転封に不服を持ち<ref group="注釈">{{Efn|[[小諸藩]]主であった[[仙石忠政]]が幕府に対し、自身の上田領への転封を願い出てこれが通ってしまった結果、真田氏は代々の土地である上田から立ち退くこととなったため、と言われている。しかし実際には、[[山形藩]][[最上氏]]改易に伴い松代藩主だった左衛門尉系[[酒井氏]]の[[庄内藩]]への転封が行われ、同時期に秀忠の次男[[徳川忠長]]へ小諸7万石の加増も行われたために、仙石氏(小諸→上田)・真田氏(上田→松代)が玉突きで転封することになったものである{{Sfn|平山 |2016 p.|pp=341-342)342}}</ref>}}、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。しかし、これらの逸話は出典がはっきりしておらず、実際は後に入った仙石氏には引継書類が引き渡されている。原則として転封の際の引継書類は前の藩主が一度幕府に提出し、検分を受けてから次の藩主に引き渡される(幕府への引き渡しがないと、家の存続にかかわる重大な事態になりかねない)ため、重要書類を破却したのは事実ではない{{Sfn|平山|2016|p=343}}。また松代への移封は加増されているとは言え、[[徳川秀忠]]の嫌がらせの1つとされているが、実際は[[松代城]]は祖父・[[真田幸隆|幸隆]]が参戦した川中島ゆかりの城で、信之以前は家康の子・[[松平忠輝]]や[[越前松平氏]]の[[松平忠昌]]、左衛門尉系[[酒井氏]]の[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]といった[[親藩]]や[[譜代大名|譜代]]の名門が配された要衝であることから、むしろ秀忠が信之を要地を任せるに足る人物だと評価していたことを示すものである。信之自身も重臣の[[出浦盛清|出浦昌相]]に「誠に家の面目であり、何も言うことがないほど光栄なことだ(「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」)」と書き送っている{{Sfn|平山|2016|ppp=342-346}}。ただ、同時期に[[小野お通]](初代)へ当てた手紙では故郷の地を離れる心細さが吐露されている{{Sfn|平山|2016|ppp=347-348}}。
* 信之は書や詩歌に通じていた京都の才女・[[小野お通]](初代)と親交があった。信之が上田から松代へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に松代藩領の[[川中島]]は[[西行]]が歌に詠んだ地であり、他にも[[姥捨山]]や更科の月、善光寺といった名勝が領内にあるので、ぜひとも松代に下って来てほしいと綴っている{{Sfn|平山|2016|p=347}}。信濃の自然や名所旧跡への思い入れが深く、信之にとっての癒しの元といえる<ref name="health32">{{Sfn|宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法』、|2002|p.=32、中央労働災害防止協会、2002年。</ref>}}
* 信之の保養法は、[[湯治]]と信濃の自然鑑賞で、療養や江戸詰めの後などにしばしば[[草津温泉]]を利用している。効能を熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣の[[島田利正]]が湯治を計画するや、その面倒をみている<ref name{{Sfn|宮本|2002|p="health32" />32}}
* 明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている<ref>長野県.真田宝物館。</ref>。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。
* [[徳川頼宣]]<ref>『[[名将言行録]]』</ref>は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の[[具足親]]になったとされる逸話が残っている。
* 老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に[[酒井忠世]]や[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]から将軍・[[徳川家綱]]が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居を認める際、家綱は信之を「天下の飾り」と表現している{{Sfn|平山|2016|ppp=394-395}}。しかし、後継者となった信政はいつまでも家督が譲られないため父に恨みを抱き、家督相続後間もなく死去した際の遺言でも残った老父のことには一切触れなかった。この遺言を読んだ信之は、大いに立腹したと伝えられている{{Sfn|平山|2016|ppp=399-400}}。
* 信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている{{Sfn|平山|2016|ppp=404-405}}。
 
== 関連作品 ==
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=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプReflist|2}}
{{reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
; 書籍
* {{Cite bookCitation |和書 |authorlast=[[柴辻 |first=俊六]] |authorlink=柴辻俊六 |year=1996 |title=真田昌幸 |publisher=[[吉川弘文館]]< |series=人物叢書> |isbn= 978-4-64-205202-3 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author= |year=1976|month=7 |title=リプリントシリーズ6『加沢平左衛門覚書』 |publisher=[[関東史料研究会]] |isbn= |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=[[笹本正治]] |year=2009 |title=真田氏三代 真田は日本一の兵 |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |isbn= 978-4-62-305444-2 |ref=harv }}
* {{Cite bookCitation |和書 |authorlast=[[丸島 |first=和洋]] |authorlink=丸島和洋 |year=2015 |title=真田四代と信繁 |publisher=[[平凡社]] |isbn= 978-4-58-285793-1 |ref=harv }}
* {{Cite bookCitation |和書 |authorlast=丸島 |first=和洋 |year=2016 |month=1 |title=真田一族と家臣団のすべて |publisher=[[KADOKAWA]]< |series=新人物文庫> |isbn= 978-4-04-601099-5 |ref=harv }}
* {{Cite bookCitation |和書 |authorlast=平山 |first=優 |authorlink=[[平山優 (歴史学者)|平山優]] |year=2016 |title=真田信之 父の知略に勝った決断力 |publisher=[[PHP新書]] |isbn= 978-4-569-83043-8 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=[[黒田基樹]] |authorlink=黒田基樹 |year=2017 |title=真田信之 |series=シリーズ・織豊大名の研究 第5巻 |publisher=[[戎光祥出版]] |isbn=
978-4-86403-237-7 |ref=harv }}
* [[{{Citation |和書 |last=宮本 |first=義己]]『 |authorlink=宮本義己 |year=2002 |title=歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』、 |publisher=中央労働災害防止協会 |year=2002年。}}
{{commonscat|Sanada Nobuyuki}}
 
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{{松代藩主|真田氏|初代|1622年 - 1656年}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:さなた のふゆき}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:松代藩主]]