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|時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
|生誕=[[永禄]]9年([[1566年]])
|死没=[[万治]]元年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]{{Sfn|丸島
|改名 = 源三郎(仮名)→信幸(初名)→信之
|別名 = 一当斎(号)
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== 生涯 ==
=== 武田家臣時代 ===
[[永禄]]9年([[1566年]])、武藤喜兵衛(後の[[真田昌幸]])の長男として生まれる{{Sfn|柴辻
その後、信幸は武田家の[[人質]]として過ごした{{Sfn|柴辻
[[天正]]10年([[1582年]])3月に武田家が[[織田信長]]の[[武田征伐]]によって滅ぼされると、同じく人質だった母の[[山手殿]]と共に上田の父の元へと逃れた{{Sfn|柴辻
=== 武田滅亡後 ===
信長が[[本能寺の変]](1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る[[天正壬午の乱]]が発生した。[[相模国]]の[[北条氏直]]は織田家臣・[[滝川一益]]を[[神流川の戦い]]で破ると、真田家は[[後北条氏]]に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという{{Sfn|柴辻
同じ頃、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の[[海津城]]を撹乱した。だが、やがて[[徳川家康]]に臣従した武田遺臣・[[依田信蕃]]や叔父の[[真田信尹]]らの誘いにより、[[沼田城]]を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の[[富永主膳]]軍5,000が防衛する[[手子丸城]]を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
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天正13年([[1585年]])、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次[[上田合戦]])。信幸は支城の[[戸石城]]に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。
その後、昌幸は上杉景勝を介して[[豊臣秀吉]]に臣従し、天正17年([[1589年]])には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の[[本多忠勝]]の娘・[[小松姫]]を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた{{Sfn|柴辻
天正18年([[1590年]])、沼田領割譲問題から発生した[[小田原征伐]]で信幸は上野[[松井田城]]攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる{{Sfn|柴辻
[[文禄]]3年([[1594年]])11月2日には[[従五位|従五位下]][[伊豆国|伊豆守]]に叙任される{{Sfn|柴辻
=== 関ヶ原の戦い ===
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=== 幕藩体制下 ===
[[ファイル:Matsushiro Castle 20100919-01.jpg|thumb|松代城址]]
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり[[上田藩]]主となったが、[[上田城]]は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った[[仙石氏]]が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から'''信之'''に改めている(なお、慶長13年([[1608年]])から17年([[1612年]])までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている{{Sfn|平山
信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた{{Sfn|平山
慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]では病気のために出陣できず、長男の[[真田信吉|信吉]]と次男の[[真田信政|信政]]が代理として出陣した。[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])10月、信濃[[松代藩|松代]]に加増移封され{{Sfn|柴辻
[[明暦]]元年([[1656年]])、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・[[真田熊之助|熊之助]]が既に死去していたため、次男の信政に[[家督]]を譲って[[隠居]]する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・[[真田信利|信利]]が次男の血統(信政の六男)である[[真田幸道|幸道]]の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は[[沼田藩]]として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月17日に死去{{Sfn|柴辻
墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺[[長国寺 (長野市)|真田山長国寺]]には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に[[真田幸貫|幸貫]]が[[老中]]となっている。[[明治維新]]後に[[子爵]](後に[[伯爵]])家となった。
== 人物・逸話 ==
* 93歳という長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった{{Sfn|平山
* [[前田利益]]とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた
* 天正10年([[1582年]])10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・[[大戸真楽斎]]とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田氏家臣の[[唐沢玄蕃]]に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の[[鎌原幸重]]を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、[[徳川将軍家]][[旗奉行]]となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。
* 第一次上田合戦の頃、徳川軍と連携して[[塩田平]]の土豪・杉原四郎兵衛が一揆を起こし、冠者ヶ嶽城などを根拠として真田氏に抵抗した際、敵方の城を巡見した信之は、身分の低い水出大蔵という馬丁の意見を容れて城を攻め落とし、水出には褒美を与えた。後年、信之はこの時のことを振り返って「水出は馬丁の立場で出過ぎた行動だったかもしれない。しかし彼は、あの地域のことを良く知っていた者である。戦場ではまず人の区別なく意見を聞き、道理に従い行動すべきである。身分が低いからといって、相手を侮り、水出の献策を用いなければ、あの城は一時で落とすことはできなかったであろう」と述べており、相手の身分に関係なく有用な意見は用いようとしていた{{Sfn|平山
* [[豊臣政権]]時代、信之が最も親しく交流していた秀吉の家臣は真田氏の[[取次]]を担当していた[[石田三成]]であり、その交友関係は他の大名にも知られるところであった。「真田家文書」には14通もの三成からの書状が残されている{{Sfn|丸島
* いわゆる「真田の[[赤備え]]」は弟・信繁が[[大坂の陣]]で用いたのが有名だが、文禄2年([[1593年]])に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、[[指物]]はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた{{Sfn|平山
* 2度の[[上田合戦]]や[[大坂の陣]]において真田家が徳川軍を苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方に付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している{{Sfn|平山
* 松代への転封に不服を持ち
* 信之は書や詩歌に通じていた京都の才女・[[小野お通]](初代)と親交があった。信之が上田から松代へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に松代藩領の[[川中島]]は[[西行]]が歌に詠んだ地であり、他にも[[姥捨山]]や更科の月、善光寺といった名勝が領内にあるので、ぜひとも松代に下って来てほしいと綴っている{{Sfn|平山
* 信之の保養法は、[[湯治]]と信濃の自然鑑賞で、療養や江戸詰めの後などにしばしば[[草津温泉]]を利用している。効能を熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣の[[島田利正]]が湯治を計画するや、その面倒をみている
* 明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている<ref>長野県.真田宝物館。</ref>。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。
* [[徳川頼宣]]<ref>『[[名将言行録]]』</ref>は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の[[具足親]]になったとされる逸話が残っている。
* 老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に[[酒井忠世]]や[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]から将軍・[[徳川家綱]]が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居を認める際、家綱は信之を「天下の飾り」と表現している{{Sfn|平山
* 信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている{{Sfn|平山
== 関連作品 ==
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=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
; 書籍
* {{
* {{Cite book |和書 |author= |year=1976|month=7 |title=リプリントシリーズ6『加沢平左衛門覚書』 |publisher=[[関東史料研究会]]
* {{Cite book |和書 |author=[[笹本正治]]
* {{
* {{
* {{
* {{Cite book |和書 |author=
978-4-86403-237-7
*
{{commonscat|Sanada Nobuyuki}}
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{{松代藩主|真田氏|初代|1622年 - 1656年}}
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:松代藩主]]
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