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東ローマ帝国の軍隊は[[重装歩兵]]が主力の軍隊であったが、[[サーサーン朝]][[ペルシャ]]の出現以降、[[レギオン]]や[[プラエトリアン]]といった[[重装歩兵]]の軍団から[[カタフラクト]]や[[クリバナリウス]]といった[[重装騎兵]]の軍団に変化していくと、ただでさえ東西に分裂したために国政が混乱した国情では軍隊編成のための人材や金銭が十分に調達できなかった。そのために各地に設置した[[テマ]]制度に基づいた武装可能な地元の自由農民による軍編成となり、西欧における[[封建制度]]の中での[[騎士]]、もっと厳密に言うなら西欧での[[ミニステリアーレ]]や[[サージェント]]とよく似た制度をとることとなり、こうした制度に属する兵士がストラティオティスとよばれるようになった。東ローマ帝国にはこれとは別に、帝国の中枢部を防衛する[[タグマタ]](通常日本では「中央軍」と訳される)と呼ばれる皇帝直属の軍隊も設置されていた。
 
装備としてはカタフラクトが主な戦力であったために重装備で、[[剣]]や[[ランス (槍)|騎槍]]といった近距離戦用の武器と共に[[合成弓]]を携えた騎馬の兵士が戦争に赴くことが主だったが、装備や召集のあり方が軍紀や法律などで定められていたということは特にないため領土や収入に応じて装備が異なっていることが多く、飛び道具を持たないで接近戦用の武器のみで武装した重装騎兵、レギオンの流れを汲み大型の盾と長槍で武装した重装歩兵、[[フン族]]や[[パルティア]]といった東方の[[騎馬民族]]を手本とし合成弓を主要武器とする[[軽装騎兵]]、これらの兵士を援護する[[スカーミッシャー|軽装歩兵]]もいくらかいた。テマの農民兵士は一部の裕福な者を除いて比較的貧しく、装備は水準を下回ることもあり、統一されていないことも多かった<ref name="ヒース2001p19">[[#ヒース2001|ヒース2001]]、p.19。</ref>
 
時代が進み異民族の侵攻により帝国の領土が縮小し、地方の既存の社会体制も自由農民中心から小作農民中心の経済体制に変化するようになるとテマ制度は崩壊してストラティオティスもしだいに衰退し、代わりにタグマタがその役割を引き継ぐようになっていった。最終的には[[オスマン帝国]]により、東ローマ帝国が滅ぼされたことによって正規軍としてのストラティオティスは完全に消滅した。
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こうしたバルカン半島の傭兵で組織された軽装騎兵(ハンガリーの[[ハサー]]、ワラキアの[[カラーシ]])はポーランドの軽装騎兵([[ハサー|ウィングハサー]]、[[ウーラン]])と並んで後のオスマン帝国の軽装騎兵や発展する火器に対する衝撃力としては有効であり、軽装騎兵の概念が芽生え始めた当時のヨーロッパ諸国において重宝された。
 
==脚注==
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==関連項目==
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==参考文献==
*『武器甲冑図鑑』
* {{Cite book|和書|author=イアン・ヒース|translator=柊史織|year=2001|title=ビザンティン帝国の軍隊 886-1118 ローマ帝国の継承者|publisher=新紀元社|isbn=|ref=ヒース2001}}
 
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