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[[漆器]]の表面に[[漆]]で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに[[金]]や[[銀]]などの金属粉を「'''蒔く'''」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「[[沈金]](ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「[[螺鈿]](らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。
 
日本国内に現存する最古の蒔絵資料は[[正倉院]]宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」であり、これは2009~20102009&ndash;2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されている。<ref> 室瀬和美 「金銀鈿荘唐大刀の鞘上装飾技法について」 『正倉院紀要』33号 宮内庁正倉院事務所 2011 </ref>
 
== 蒔絵の起源 ==
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このように明治から戦後頃までの論考では、「末金鏤作」が渡来品であることを認めつつも、「末金鏤作」が「蒔絵」ではないことを論拠として蒔絵の日本起源説が唱えられてきた。
 
1953~19551953&ndash;1955年の正倉院事務所の調査によって、吉野らとともに「金銀鈿荘唐大刀」の実物を目にした[[松田権六]]は1964年、「末金鏤はまさしく後のいわゆる蒔絵の技法になるもの」と判定し、これまで支持してきた六角の「末金鏤=練描」説を否定した。
その一方で、交流があり松田自身「蒔絵界の先覚」と尊敬していた<ref> 松田権六 「吉野富雄氏の時代蒔絵鑑賞会」 『美術工藝 1月号 通巻第十号』 美術・工藝編集部 1942 </ref>吉野の「末金鏤という技法名は存在せず、末金鏤作とするが正しい」という説をも否定し、「末金鏤」を初期蒔絵の技法名とした。さらに、「末金鏤と中国ふうによばれているのは奈良時代には蒔絵という言葉が、まだ、できていなかった一証拠としてよい」として、「金銀鈿荘唐大刀」が日本で作られたものであることを示唆した。
その上で「この末金鏤すなわち蒔絵の技法は中国には今までのところみられないので、わが国でこのころ創始されて発達した」とし、日本起源説を維持した。<ref> 松田権六 『うるしの話』 岩波新書 1964 </ref>
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この松田による発表は、著書「うるしの話」が漆工芸界のベストセラーであったことも相まって、その後「末金鏤という初期の技法で作られた金銀鈿荘唐大刀が蒔絵の最初のもの」という説が広く浸透していくこととなる。
 
しかし、翌1965年に松田は中国を訪問。同年末に淡交新社より発刊された[[荒川浩和]]らとの共著『日本の工芸2 漆』の技法解説の「蒔絵」の項では、「それ(蒔絵)が日本独特のものだという説もあるが、最近の中国での発掘調査では、その説は訂正されなければならないであろう」として、蒔絵日本起源説の見直しを示唆した。<ref> 松田権六・荒川浩和・杉原信彦・谷川徹三 『日本の工芸2 漆』 淡交新社 1965 </ref>また、発行は松田の没後であるが、1993年に再版された著書「うるしの話」の付記には「蒔絵らしいものを中国の戦国時代(紀元前403~403 - 紀元前221年)の遺品に見た」と補足されている。<ref> 松田権六 『うるしの話』 岩波新書 1993 </ref>
 
2002年、田川真千子は東大寺献物帳に記載されている単語やその類例を広く比較検証し、「金銀鈿荘唐大刀」の「末金鏤作」について、「末金鏤という技法名は存在せず、現物から観察的に記述したもの」として、吉野富雄と同様の結論に達している。<ref> 田川真千子 「『東大寺献物帳』の記載にみる工芸技術について : 「鏤」「鈿」「作」「荘」「裁」の用例から」 『人間文化研究科年報 第18号』 奈良女子大学  2002 </ref>