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[[ファイル:Urasoe Yodore3.JPG|サムネイル|浦添ようどれ]]
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'''浦添ようどれ'''(うらそえようどれ、ウラシーユードゥリ)は、[[沖縄県]][[浦添市]]にある[[琉球王国]]の[[陵墓]]。西室(13世紀頃に[[英祖 (琉球国王)|英祖]]王陵)東室([[尚寧王]]陵)の二つの墓室を中心に墓庭、門、石牆(石垣囲い)からなる。国の[[史跡]]・[[浦添城]]跡の一部。[[英祖 (琉球国王)|英祖]]1261年に築き、[[尚寧王]]が1620年に修築し葬られたと伝えらている<ref name="okimu">[httphttps://www.shimatate.orokimu.jp/20kouhouuserfiles/simatateifiles/sima_32page/sima32-25-27museum/issue/picture_record/news.pdf 下地安広「浦添グ沖縄考古学ニュークと浦添ようどれの発掘調査から解ること」]『しまたてぃ』NO.32.2005. 沖縄県立博物館・美術館、2020年1 25-27月29日閲覧。</ref>。
 
==概要 墓室 ==
[[ファイル:Urasoe Youdore - The royal tomb of the Ryukyu king.jpg|サムネイル|左|石牆]]
浦添城跡北側崖下中腹に設けられた掘込墓である。ようどれは夕凪の意。別名極楽陵。墓庭から向かって右側が西室(英祖王陵)、左側が東室(尚寧王陵)と言われている。墓庭は一番庭、二番庭からなり、その周りを石牆、中御門が囲んでいる。外側にあった天然の岩からなる「暗しん御門」(くらしんうじょう)は戦争で破壊された
 
西室([[英祖 (琉球国王)|英祖]]王陵)と東室([[尚寧王]]陵)の二つの墓室を中心に墓庭、門、石牆(石垣囲い)からなる。国の[[史跡]]・[[浦添城]]跡の一部。[[英祖 (琉球国王)|英祖]]が1261年に築き、[[尚寧王]]が1620年に修築したと伝えられる<ref>[http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_32/sima32-25-27.pdf 下地安広「浦添グスクと浦添ようどれの発掘調査から解ること」]『しまたてぃ』NO.32.2005.1 25-27</ref>。
 
墓庭から向かって右側が西室(英祖王陵)、左側が東室(尚寧王陵)と言われている。墓庭は一番庭、二番庭からなり、その周りを石牆、中御門が囲んでいる。外側にあった天然の岩からなる「暗しん御門」(くらしんうじょう)は戦争で破壊された。
 
西室には中国産の[[閃緑岩]]製の石[[厨子]]([[石棺]])が3基ある。東室には閃緑岩製1基、微粒子砂岩(方音:ニービヌフニ)製1基、石灰岩製1基の計3基の石厨子がある。
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墓の中にある石厨子は県指定有形文化財になっている<ref>[http://www.nihon-kankou.or.jp/okinawa/472085/detail/47208af2170021145 日本観光協会(沖縄県浦添市)]</ref>。
 
== 調査 ==
1996年から2004年にかけ発掘調査が行われた<ref name="okimu" />。
 
==参考文献==