「キルペリク1世」の版間の差分

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[[567年]]、年長の兄カリベルトが死ぬと、パリの3分の1と[[リモージュ]]、[[カオール]]、[[ボルドー]]、ベアルン、ビゴールの都市と[[ピレネー]]地方を相続した。同じ年に西ゴート王[[アタナギルド]]の娘ガルスウィンタと結婚。ところがその翌年にガルスウィンタはキルペリクの指図を受けた腹心によって寝室で絞殺される<ref>{{Cite book|和書|author=A・ティエリ|year=1992|title=メロヴィング王朝史話|publisher=岩波文庫|pages=P.67}}</ref>。ガルスウィンタの妹[[ブルンヒルド]]と結婚していたキルペリクの兄[[シギベルト1世]](アウストラシア王)はフランク人の習慣どおり「血の復讐」を求めたが、もう一人の兄[[グントラム (ブルグント王)|グントラム]](ブルグント王)が仲裁に入った。そこで大民会が開かれ、[[サリカ法]]によりリモージュ、カオール、ボルドー、ベアルン、ビゴールをアウストラシア王妃、つまりブルンヒルドの所有とすることとされる。この決定に不服であったキルペリクは、[[573年]]になってアウストラシア領である[[トゥール]]と[[ポワティエ]]に息子クローヴィスの軍隊を侵攻させた<ref>{{Cite book|和書|author=A・ティエリ|year=1992|title=メロヴィング王朝史話|publisher=岩波文庫|pages=P.77}}</ref>。2年にわたるフランク王国の内戦はキルペリクの刺客によってシギベルトが暗殺されるまで続いた。なおもアウストラシアをねらいつづけていたキルペリクであったが、584年9月のある夕方に狩猟から帰ったところを刺客に殺された。下手人は侍従のエベルルフと宣言され、その所領は没収された<ref>{{Cite book|和書|author=F.de.クーランジュ|year=1956|title=フランス封建制度起源論|publisher=岩波文庫|pages=P.176}}</ref>。
 
異母兄シギベルト1世との不和、2番目の王妃ガルスウィンタ殺害といった、キルペリク自身が撒いた種とも言えることに端を発するネウストリアとアウストラシアの約半世紀に渡る骨肉の争いは、[[613年]]にキルペリクの末子にして末息子[[クロタール2世]]がブルンヒルドとその曾孫2人(シギベルト2世、コルブス)を処刑して勝利したことにより、ようやく終結を見ることになる。
 
==家族==